織田信長の『家族』~父親の名前は?嫁した帰蝶(きちょう)とは?

三英傑(さんえいけつ)の一人で、強烈な印象を後世に残す武将・織田信長(おだのぶなが)。

今回は、英雄・信長を取り巻く『家族』にスポットを当て、ご紹介します。

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◆実家・織田家のルーツ

福井県に織田(おた)町という地名があり、もともと織田氏はこの地から出たと言われています。

織田町には剣(つるぎ)神社という大きな神社があり、織田氏は代々ここの神官をしていたそうです。

やがて、越前の守護・斯波(しば)氏に見いだされ、家臣として尾張国(おわりのくに)に送り込まれたのでした。

◆父親の名前は?

織田信長の父親の名前は、織田信秀(のぶひで)氏。

尾張国南西部を支配する、勝幡城(しょばたじょう・愛知県稲沢市など)の城主・織田信定の長男として生まれました。

若くして家督を相続すると、今川氏系の居城とされる那古野城(のちの名古屋城)を奪い、現在の名古屋市域周辺に勢力を拡大します。

信長の父親として有名な人物ですが、自身も智勇に優れた武将であり、「尾張の虎」と称されて恐れられました。

その後も勢力を拡大しましたが、斎藤、松平、今川らの強者に苦しめられる中、42歳で死去します。

死因は流行病とされていますが、敵対勢力から放たれた忍びによる「暗殺説」もあるそうです。

素行が悪く、親族からの評判も悪かった信長を、一貫して自らの後継者に据え続けた父・信秀氏。

親子の間には、固い信頼関係があったのでしょう。

◆母親との確執

織田信長の母親の名前は、土田御前(どたごぜん)。

父・信秀の弟である織田信康の家臣に、土田政久という武士がおり、土田御前は土田政久の息女だとされています。

実は、信長はマザコンだったという説が…

マザコンには、「母の溺愛」「母の愛情不足」と2つのタイプがありますが、信長の場合は後者。

母・土田御前は「うつけ(=大バカ者)」と呼ばれた信長を嫌い、弟ばかりを可愛がりました。

信長は、乳を飲んでいる時期からかんしゃく持ちで、乳の出が悪い時など、その乳首を強く噛んで出血させるなどの、激しい行動が目立ちました。

そんな可愛げのない赤ん坊であった信長を、土田御前は遠ざけてしまったのだそうです。

信長といえば、

「裏切り者にはとことん苛烈で残酷」

というのが特徴ですが、これも、幼年期の愛情不足から引き起こされたことが原因とされています。

◆弟・織田信行

織田信長にはたくさんの弟がいますが、有名なのは織田信行(のぶゆき)。

弟の信行は品行方正な性格で、母・土田御前は信行ばかりを可愛がりました。

父・信秀の葬儀の際、信長が仏前で抹香を投げつけるという無礼を働いたのは有名な話。

この時、信行は、

「折目高なる肩衣・袴めし候て、あるべきごとくの御沙汰なり」

と記録されているとおり、正装をして礼儀正しく振舞ったそうです。

やがて、信長と対立した信行は、柴田勝家らを味方につけ挙兵しますが、謀反は失敗に終わりました。

母のとりなしによって一度は許された信行でしたが、信長への反抗が続いたため、最後は暗殺されています。

◆弟は茶人で「有楽町」の由来?

織田信長の弟として、もう一人有名な人物がいます。

それは、織田信秀の十一男に当たり、信長より13歳年下の織田長益(おだ ながます)。

弟の長益は、茶人として有名で、茶名は「有楽斎」。

関ヶ原の戦いのあと、長益は徳川方に属し、江戸・数寄屋橋の周辺に屋敷を構えました。

長益の没後、屋敷跡は「有楽原」と呼ばれるようになりましたが、これが、現在の「有楽町」の由来となっています。

◆妹・お市の方

織田信長の妹として有名なのは、お市の方(おいちのかた)。

お市も信長より13歳年下ということなので、弟・長益と同い年という事になりますが、母親が異なるのでしょう。

お市は、戦国一の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられています。

信長は、対立する斎藤氏をけん制するため、妹のお市を浅井長政に嫁がせました。

政略結婚ではありましたが、お市と長政は仲が良かったそうで、3人の子供に恵まれています。

長女の茶々(ちゃちゃ)は後に豊臣秀吉の側室に、次女の初は京極高次の正室に、三女の江は徳川秀忠の継室になりました。

結局、信長と対立した浅井長政は、姉川の戦いで敗れ自害。

お市は三人の娘とともに救出され、しばらくは織田家で平穏な生活を送りました。

信長の死後は、柴田勝家と羽柴秀吉の申し合わせにより、柴田勝家と再婚します。

この時、お市は36歳くらいでしたが、20代前半に見えるほど、若作りの美形だったそうです。

再婚からわずか6ヶ月後、勝家は秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いで敗れ自害し、お市も夫と運命を共にしています。

◆嫁した帰蝶(きちょう)とは?

織田信長の正室は、濃姫。

父・信秀と敵対していた斎藤道三の娘で、斎藤氏との和睦が成立すると、その証として政略結婚が交わされました。

濃姫という名は、

「美濃国の高貴な女性」

という意味の通称に過ぎず、本名は「帰蝶(きちょう)」または「胡蝶(こちょう)」であったとされています。

濃姫に関する史料は乏しく、いつ亡くなったのかもはっきりしません。

そのため、「離縁説」「早世説」「戦死説」などが後世で議論されています。

「戦死説」によると、濃姫は48歳で本能寺の変に遭遇し、信長と共に薙刀を振るって敵兵と戦ったことに…

ちなみに、濃姫の母は明智氏の出身であり、本能寺の変を起こした明智光秀と濃姫は従兄妹にあたるとも言われています。

◆子供の名前とユニークな幼名…

「英雄色を好む」というべきか、織田信長には10人以上の妻と、20人以上の子供がいたとされています。

全部は難しいので、息子に限定して、名前と幼名をご紹介します。

  • 長男:織田信忠(奇妙丸)
    大切な織田家の跡取りですが、生まれた時の顔が奇妙だったために、不名誉な幼名をつけられています(>_<)
  • 次男:織田信雄(茶筅丸・ちゃせんまる)
    「茶筅」とは抹茶をたてる時の道具のことです…
  • 三男・織田信孝(三七・さんしち)
    3月7日生まれなのだそうです…
  • 四男:羽柴秀勝(於次・おつぎ)
  • 五男:織田勝長(坊丸)
  • 六男:織田信秀(大洞)
  • 七男:織田信高(小洞・ごぼう)
    元フィギュアスケートの織田信成選手は、この方の子孫なのだそうです。
  • 八男:織田信吉(酌)
    ちなみに母上は「お鍋」だそうです…
  • 九男:織田信貞(人)
    「人」って…
  • 十男:織田信好(良好)
    名前というより状態を表してますね…
  • 十一男:織田長次(緑・えん)
    少し良くなってきたでしょうか…?

◆まとめ

1554年、織田信長は「村木砦の戦い」で今川義元との壮絶な戦闘を制しましたが、家来の多くが傷つき戦死しました。

この時、信長は涙を流しながら家来をねぎらったと、信長公記に記されています。

妻を残して岐阜に単身赴任した部下を叱ったり、羽柴秀吉夫妻の夫婦喧嘩を仲裁したこともあるそうです。

残虐なイメージが強い信長ですが、時折見せる「人間くささ」が、後世でも人気が高い秘密なのでしょう(^_-)


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