女子プロボウリング界の草分けとして活躍した、中山律子(なかやま・りつこ)さん。
今回は、そんな中山さんを取り巻く『家族』の物語です。

◆家族構成
中山律子さんの実家の家族構成は、父親、母親、7人の子供からなる9人家族です。
律子さんは7人きょうだいの3番目で、次女にあたります。
自身は1974年〈昭和49年〉に結婚し、1978年〈昭和53年〉には長女が誕生しました。
◆実家・生い立ち
中山律子さんは、群馬県吾妻郡草津町で生まれました。
3歳のとき、両親の故郷である鹿児島県へ引っ越し、鹿児島で育ちます。
子供の頃から、かけっこが大好き。
リレーでは、後ろから走っていって先頭の選手を追い抜く瞬間が好きだったそうです。
中学校からは9人制のバレーボールを始め、鹿児島女子高等学校へ進学。
高校では、顧問の先生の指導のもと、暗くなるまで練習に励みました。
卒業後は、愛知県の旭精機工業に入社。
実業団のバレーボール選手として活動します。
しかし、チームの解散が決まり、20歳の頃に鹿児島へ戻ることになりました。
そして22歳の頃、友人に誘われて初めてボウリングを体験します。
初めてのスコアは85点。
それでも、ボールを投げる面白さに魅了され、次第に夢中になっていきました。
◆父親・孝さん
中山律子さんの父親の名前は孝さん。
父・孝さんは農林省の公務員として働いていました。
律子さんが実業団のバレーボールチームを退団して鹿児島へ戻ったとき、孝さんは、
ふーん、帰ってきたの
と、あっさりした反応だったそうです。
それでも、孝さんは仕事の関連先だった結核予防会を紹介してくれました。
そのおかげで、律子さんは鹿児島で会社員として働き始めることができたのです。
ところが、律子さんがボウリングに夢中になり始めた頃、父・孝さんは亡くなってしまいます。
◆母親はおでん屋を経営
中山律子さんの母親は、7人の子供を育てたお母さんです。
名前や生年月日は公表されていません。
夫を亡くした後、お母さんはおでん屋を始めました。
律子さんも会社を辞めて店を手伝いながら、ボウリングの練習を続けます。
当時、ボウリングは1ゲーム180~200円ほど。
決して安くはありませんでしたが、律子さんは週に1度、お店のレジから1000円札をもらってボウリング場へ通っていました。
その後、腕前が上達すると、アマチュアの大会にも出場するようになります。
転機が訪れたのは、1967年〈昭和42年〉。
大阪で開催された第1回全日本オープントーナメントの女子個人の部で準優勝を果たしたのです。
この活躍がきっかけとなり、東京タワーボウリングセンターからスカウトを受け、上京することになりました。
娘が東京へ行くと聞いたお母さんは、知り合いの占い師に相談したそうです。
何か良いことを言われたらしく、律子さんに、
行きなさい、がんばってきんしゃい!
と声をかけて送り出してくれました。
お母さんには、もう一つ願いがありました。
子どもが7人もいるのだから、1人ぐらい野球選手とか何かで大成してほしい
7人の子供のうち、誰かが大きなことを成し遂げてほしい。
そんなお母さんの願いを胸に、律子さんは東京で新しい人生を歩み始めます。
1969年〈昭和44年〉6月、第1回女子プロテストに挑戦。
45人の受験者のうち合格したのは13人で、律子さんは見事2位で合格しました。
◆7人きょうだいの3番目
中山律子さんは、7人きょうだいの3番目として育ちました。
本人によると、きょうだいの中では次女にあたります。
姉が1人、ほかに5人のきょうだいがいますが、名前や年齢、職業などは公表されていません。
律子さんはプロテストで2位になったことについて、インタビューで、

私、次女ですし。
と語っています。
1番手よりも2番手の方が自分には居心地がよいという話の中で出た言葉でした。
7人きょうだいの中で育った律子さんらしい、飾らない一言ですね。
◆夫・小田洋雄さん
中山律子さんの夫は、音楽プロデューサーの小田洋雄(おだ・ひろお)さんです。
小田さんは、レコード会社のワーナー・パイオニアで活躍した音楽プロデューサー。
中森明菜(なかもり・あきな)さんの初期作品などを手掛けた人物として知られています。

2人は1974年〈昭和49年〉に結婚しました。
2010年のインタビューで、律子さんは夫について、

主人も、私とやると負けるのでもっぱらゴルフ。でも、ボウリングのほうが安い(笑)
と語っています。
ボウリング界のレジェンドを妻に持つ小田さんですが、夫婦で楽しむスポーツはゴルフが中心だったようですね。
◆長女・早苗さん
中山律子さんには、娘が1人います。
長女の名前は早苗さんです。
1978年〈昭和53年〉1月に誕生しました。
律子さんは前年の1977年〈昭和52年〉4月から産休に入り、出産・育児を経て競技に復帰しています。
娘さんが泣いたら練習を終えるという生活の中でも、ボウリングへの情熱を失うことはありませんでした。
1979年〈昭和54年〉9月には、出産後初優勝を飾っています。
◆エピローグ
中山律子さんがプロボウラーとして歩み始めた頃、母親はおでん屋を切り盛りしていました。
週に1度、店のレジから1000円札をもらってボウリング場へ通っていた娘。
やがて上達した律子さんは、東京へ旅立ち、女子プロテストに合格します。
プロになってからの生活について、律子さんは、

ギャラが入ってきますから、好きなことができるようになったし、欲しいものが買えるようになりました。母にも好きなことをさせてあげられるようになりましたし。
と振り返っています。
かつては母親に練習代をもらっていた娘が、今度は母親に好きなことをさせてあげられるようになったのです。
母親が「がんばってきんしゃい」と送り出した娘は、やがて日本中に知られる「さわやか律子さん」になりました。
7人の子供の中から誰かが大成してほしい。
そんな母親の願いに応えた律子さんの成功は、きっと母親にとって何よりの喜びだったことでしょう✨
◇脚注・出典
- 笹川スポーツ財団「ボウリングブームの立役者 中山律子」
- 公益社団法人日本プロボウリング協会「中山律子・選手データ」
- 公益社団法人日本プロボウリング協会「中山律子・永久シードプロ」
- 講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』「中山律子」
- システムブレーン「中山律子プロフィール」
- 介護110番「中山律子さん(社)日本プロボウリング協会会長」
- 日刊スポーツ 2026年11月7日「【復刻連載3】中山律子さん初スコアは85 月給1・2万のうち8000円使い6年後に300点」
- 日刊スポーツ 2026年11月7日「【復刻連載5】中山律子さん、宣伝マンと結婚に『これでボウリングは終わり』の声も出産後も投げた」
- 週刊朝日 2000年2月25日「夫婦の情景(8)中山律子・小田洋雄夫妻」
- 講演会インフォ「小田洋雄プロフィール」
- テレビ朝日 2026年11月7日「【訃報】ボウリング・中山律子さん(84)死去 昭和ブームの立役者 発展に貢献」



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