【松原のぶえ】の家族~母と3歳下の弟・廣原伸輝が支えた歌手人生…命を救った弟の腎臓

「おんなの出船」「蛍」などのヒット曲で知られる演歌歌手、松原のぶえさん。

1979年のデビュー以来、長く歌謡界の第一線で歌い続けてきました。

その人生を振り返ると、華やかなステージの陰には、いつも家族の存在がありました。

今回は、そんな松原さんを取り巻く「家族」の物語です。

名  前:松原のぶえ(まつばら・のぶえ)
本  名:廣原伸恵(ひろはら・のぶえ)
生年月日:1961年〈昭和36年〉7月18日
出身地 :大分県中津市耶馬溪町
血液型 :O型
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◆家族構成

松原のぶえさんの家族について、公表されている資料から確認できるのは、母親、兄、弟です。

弟は、事務所社長として松原さんの仕事を支えてきた廣原伸輝(ひろはら・のぶてる)さん。

そして、この弟さんは後に、姉の歌手人生だけでなく、命そのものを救う存在になります。

なお、兄については、存在は確認できるものの、名前や生年月日などの詳しい情報は公表されていません。

また、松原さんは1992年に当時マネージャーだった男性と結婚しましたが、2003年に離婚しています。

現在は独身で、2025年のインタビューでは「一人暮らし」と語っています。

◆大分の山あいで育った少女

松原のぶえさんは、大分県下毛郡耶馬溪町、現在の中津市耶馬溪町で生まれ育ちました。

大分県の内陸部にある耶馬溪は、紅葉の名所としても知られる自然豊かな土地です。

実は松原さんは、18歳になるまで海を見たことがなかったといいます。

そんな山あいの町で育った少女が、後に「おんなの出船」を歌い、大海原を思わせる演歌の世界で大きく羽ばたいていくのですから、人生とは不思議なものです。

幼い頃から歌が好きだった松原さんは、祖父母の影響で演歌を歌うようになりました。

中学1年生になると、福岡のタレント養成所へ通い始めます。

自宅から福岡までは片道3時間半。

週末になると長い時間をかけてレッスンに通う生活を続けました。

そして才能を見いだされ、北島音楽事務所からスカウトされます。

高校生で上京し、北島三郎さんのもとで歌手への道を歩み始めました。

◆母は歌手デビューに反対していた

松原さんの母親は、娘が歌手になることに当初は反対していたといいます。

まだ若い娘を芸能界へ送り出すことに、不安があったのでしょう。

しかし松原さんは歌手への夢を諦めませんでした。

母親の心配を背負いながら故郷を離れ、東京へ。

そして1979年7月1日、「おんなの出船」で歌手デビューを果たします。

デビュー曲は大きな反響を呼び、日本レコード大賞新人賞など数々の新人賞を受賞。

1985年には、NHK紅白歌合戦にも初出場しました。

反対していた母親にとって、娘がテレビの向こう側で歌う姿は、どんな光景だったのでしょう。

「心配だから帰ってきなさい」と言いたかった母親の胸にも、いつしか娘の歌声が誇らしく響いていたのかもしれません。

◆弟・廣原伸輝さん

松原のぶえさんには、3歳年下の弟がいます。

弟の名前は、廣原伸輝(ひろはら・のぶてる)さん。

芸能界に入った姉を支えるため、長くマネージャーを務め、後には松原さんの所属事務所「のぶえオフィス」の社長を務めました。

姉弟は、家族であると同時に仕事のパートナーでもあったのです。

しかし、2人の関係が特別なものになったのは、仕事だけではありませんでした。

松原さんを襲った大きな病気が、姉弟の人生を大きく変えることになります。

◆弟が「オレが提供するよ」

松原さんは幼少期に急性腎不全を経験しています。

その後、いったん普通の生活に戻っていましたが、40代を前に腎機能が急激に悪化。

人工透析を受けながら、全国のステージに立つ日々を送ることになりました。

地方公演の際には、午前中に透析を受け、午後からステージに立つこともあったといいます。

歌うことが大好きだからこそ、身体が限界に近づいても舞台を降りることができませんでした。

そんな姉の姿を、最も近くで見ていたのが弟の伸輝さんでした。

あるとき、松原さんが歌手仲間の山本譲二(やまもと・じょうじ)さんに病状を話すと、

だったらさあ、(家族に)腎臓もらえよ

と声をかけられます。

松原さん自身は、

そんな簡単なことじゃない

と思っていました。

ところが、そばで話を聞いていた弟が、静かに、

オレが提供するよ

と申し出たのです。

松原さんは驚きました。

病気を抱えている自分ならともかく、健康な弟の身体にメスを入れることになるからです。

「自分のために、そこまでしてもらっていいのか」

姉として、何度も葛藤しました。

◆母も「私の腎臓を」と申し出た

ここで、もう一人の家族が動きます。

母親も、

「私の腎臓を」

と、自らドナーになることを申し出たのです。

母も弟も、松原さんを救いたい。

家族それぞれが、自分の身体の一部を差し出してでも、娘、姉の命を守ろうとしました。

最終的にドナーとなったのは、弟の伸輝さんでした。

弟自身は、

「腎臓は2つあって、1つあげるだけですから」

と、あっけらかんと話したといいます。

しかし、姉にとっては決して簡単なことではありません。

手術当日まで、松原さんは弟に「やめてもいいんだよ」と何度も伝えました。

それでも弟は決意を変えません。

そして2009年5月、松原さんは弟から生体腎移植を受けました。

長い闘病生活を経て、松原さんは再び歌の世界へ戻っていきます。

◆「弟にもらった新しい命」で歌う

移植手術を終えた松原さんは、再びステージに立ちました。

弟からもらった腎臓とともに、歌手として生きる人生。

それは、単なる病気からの復帰ではありませんでした。

家族からもらった新しい命を、歌で返していく人生だったのです。

2025年のインタビューでも、松原さんは、移植から16年がたった現在も定期的に検診を受けており、弟からもらった腎臓を大切にしていると語っています。

そして弟は、現在も事務所社長として姉を支えています。

姉弟は、家族であり、仕事仲間であり、そして一度は命を分け合った存在でもあります。

◆元夫との結婚と離婚

松原さんは1992年、当時マネージャーだった棚瀬直樹(たなせ・なおき)さんと結婚しました。

その後、松原さんが事務所を独立すると、夫が社長を務めるようになります。

しかし夫婦関係には次第に亀裂が入り、2003年に離婚。

離婚後は、弟の伸輝さんが事務所を引き継ぎ、松原さんの仕事を支えることになります。

後年、松原さんは、離婚後の事務所が大きな負債を抱えることになり、自身もその返済を続けていると明かしています。

華やかなステージの裏側には、本人にしか分からない苦しみもありました。

それでも松原さんは、舞台に立つと笑顔で歌い続けました。

◆子供はいない

松原のぶえさんには、元夫との間に子供はいません。

2025年のインタビューでも、一人暮らしをしていることを明かしています。

現在、松原さんにとって大きな支えとなっているのが、家族である弟、そして長年一緒に暮らしてきた愛犬です。

かつて2匹いた愛犬のうち1匹は16歳で亡くなり、2025年にはもう1匹の15歳の愛犬を大切に育てていると語っていました。

◆エピローグ

松原のぶえさんは、2026年9月13日、都内の病院で亡くなりました。

人生の途中では病に苦しみ、何度も壁にぶつかりました。

それでも、母と弟に支えられながら、もう一度ステージへ戻ってきました。

弟からもらった「命」を抱えて、再び歌った16年間。

その歌声の向こうには、いつも家族の存在があったのだと思います。

松原のぶえさん。

長い歌手人生、本当にお疲れさまでした。

どうか今は、もう病気の心配をすることなく、故郷・大分の山々を眺めながら、ゆっくりと休んでください。

◇出典

  1. 徳間ジャパンコミュニケーションズ「松原のぶえ プロフィール」
  2. 日本コロムビア「松原のぶえ オフィシャルサイト」
  3. BS日テレ「歌謡プレミアム」第563回 松原のぶえ
  4. 週刊女性PRIME「演歌歌手の松原のぶえ、16年前の“弟からの腎臓移植”のリアルを語る」
  5. 日刊ゲンダイDIGITAL「歌手・松原のぶえさん『心配なのは15歳の愛犬のこと』」
  6. 日本タレント名鑑掲載情報(Gガイド)
  7. タレントデータバンク

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