歌手・俳優の武田鉄矢さんは、最近では妖怪ウォッチの声優を務めるなど、幅広い活躍が続いています。
今回は、そんな鉄矢さんを育み、支えてくれた『家族』にスポットを当て、ご紹介します。
◆父親の出身は?
武田鉄矢さんのお父さんの名前は、武田嘉元さん。
熊本県阿蘇郡南小国町の出身で、悪ガキでしたが運動神経がよく、走るのが早くて、歌が上手でした。
元々は村上嘉元さんと言いましたが、天涯孤独となっていた妻の家に、婿養子に入っています。
「母に捧げるバラード」では、お父さんはいつも酒を飲んで酔っているイメージですが、実際に酒癖が悪い方でした。
1983年、お父さんは末期がんに侵され、鉄矢さんは、福岡へ駆け付けます。
この時、父・嘉元さんは予想外の言葉を口にしました。
鉄矢、重度の障害児病棟へ行って来い、金八先生が励ましに行けば、子どもたちの力になるだろうから
この時の様子を知る看護師さんは、「子どもたちの表情がスゴイ、喜んで」と子供たちが喜んだことを話しています。
父・嘉元さんは、この年の暮れに亡くなりました。
◆母(画像)に捧げるバラード
武田鉄矢さんのお母さんの名前は、武田イクさん。
1920年1月15日に、旦那さんと同じく、熊本県阿蘇郡小国町で生まれました。
「武田」姓は母方のものであり、武田信玄を擁する甲斐武田氏の末裔とも言われています。
お父さんが婿養子に入ったのは、この辺りの事情が関係したのかもしれませんね。
イクさんは、進駐軍兵士のハウスメイド、タバコ屋、クリーニングの取次ぎなど、大変な苦労をしながら、二男三女を育て上げました。
「母に捧げるバラード」のモデルとなっていることは、あまりにも有名です。
しかし、鉄矢さんは「母に捧げるバラード」以降、ヒットに恵まれず、所属事務所が倒産し、帰郷を考えました。
相談に訪れた息子を前に、母・イクさんは言い放ちます。
お前、背中に疫病神が取り付いとるぞ…
そしてコップ酒を差し出すと「景気よく騒げば貧乏神はこんなに張り合いのないヤツからは逃げ出す」と乾杯!
結局、寝ていたお父さんも巻き込んで一晩中大騒ぎし、あと2曲ヒットするまでガンバレ!と言って、鉄矢さんを東京へ送り返しました。
この直後、映画「幸せの黄色いハンカチ」への出演の話が舞い込み、俳優として成功するきっかけとなるのですから、お母さん、お見事です。
イクさんは後年、子育てなどをテーマにした講演などを年100回以上こなし、ローカルタレントとしても活躍しました。
1998年10月19日、肺動脈血栓のため78歳で亡くなりました。
この年の紅白歌合戦に鉄矢さんは出場し、「母に捧げるバラード」を熱唱しています。
◆兄との確執
武田鉄矢さんにはお兄さんがいて、名前は武田義武さん。
昭和12年生まれなので、鉄矢さんより12歳年上のお兄さんは、「他人」のような関係であったと言います。
お兄さんは早稲田大学を卒業後、地元の広告代理店に就職し、周りが羨むようなエリートコースを歩んでいきました。
鉄矢さんから見ると、母親は兄を誇りに思っていて、いつもお兄さんばかり可愛がります。
「自分のことも見てほしい」と思っていた鉄矢さんですが、「母に捧げるバラード」にヒットを機に、立場が逆転しました。
お兄さんは、弟に負けまいと会社を辞めて独立しますが、事業はことごとく失敗し、多額の借金を抱えてしまいます。
一旦は母・イクさんが面倒を見ることになり、イクさんのマネージャーとして生計を立てますが、イクさんが他界するとお兄さんの生活は荒んでいきました。
保証人など数々のトラブルを生み、遺産問題でも兄弟と揉めたお兄さんと、鉄矢さんとの距離はますます離れていきます。
やがて、お兄さんの体はがんに体が蝕まれていきました。
2005年冬、鉄矢さんのもとに突然、義姉から電話が入り、涙ながらにこう訴えられます。
一度でいいから、最後くらい仲のいい兄弟でいてください…
兄との別れを直感した鉄矢さんは、翌日、博多に向かい、兄を訪ねました。
病院のベッドに横たわっていたお兄さんは、かつての面影がないほどにやせ細っていましたが、嬉しそうに鉄矢さんを迎え入れ、元気に振る舞います。
その2か月後、お兄さんは68年の人生を終えました。鉄矢さんは今では、お兄さんへ感謝の気持ちを持っています。
ぼくは兄貴にコンプレックスを持っていたんです。母からはかわいがられていたし、優等生だったし…兄貴を憎み続けてもいた。でも、そのコンプレックスが自分を成長させて、ここまで登ることができたんだと思えるようになったんです。兄貴が、今のぼくをつくってくれたんだってね
◆3人の姉たち
武田鉄矢さんには、3人のお姉さんがいます。
お名前は、長女・ミヤさん、次女・アサ子さん、三女・スミヨさん。
三女のスミヨさんは、「母に捧げるバラード」がヒットしても、「語りばかりで、コレ、フォークソングだろうか?」と首をかしげます。
恥ずかしかったから、「武田鉄矢はウチの弟」とは誰にも言わなかったそうです(#^^#)
◆嫁の名前は?
武田鉄矢さんのお嫁さんの名前は、節子さん。
多くのミュージシャンの妻がそうであるように、節子さんも鉄矢さんの売れない時代を苦労して支えました。
「母に捧げるバラード」で紅白出場を果たしますが、翌年には人気が低迷し、給料4ヶ月入らない状態となります。
翌年は大晦日の夜まで、夫婦揃って原宿の鉄板焼き屋で、皿洗いのバイトをしなければなりませんでした。
バイト帰り、自宅がある恵比寿まで、2人で真っ暗い道を歩いていると、除夜の鐘の鳴り響く中で、節子さんは突然話します。
よーく見とこうね。ここどん底だから
もう落ちる心配しなくて、いいから。今まで、落ちる心配してたけども。 ここまで落ちたら平ぺったいから
鉄矢さんは、節子さんに「いったん辞めて帰ろう」とも言いましたが、笑って聞いてくれなかったそうです。
妻・節子さんが強い女性でなければ、今の鉄矢さんの活躍はなかったことでしょう。
◆子供の年齢は?
武田鉄矢さんには娘さんが2人いて、年齢は38歳と35歳。
娘さんが子供のころ、藤子スタジオに連れて行ったことがあり、その時に娘さんが「ドラえもんはどこ?」と尋ねました。
その時、藤本さんは「今テレビ局の仕事に行っているんだよ」と答え、鉄矢さんは藤本さんの優しさに深い感銘を受けた、というエピソードがあります。
また、娘さんが就職して、実家から通っていた時は、給料の3分の1を家に入れていました。
もうその時は、鉄矢さんは歌手・俳優として成功しており、お金は必要なかったでしょうが、それが親子のケジメというものなのでしょう。
鉄矢さんは、成長した娘たちに、こう言ったそうです。
私には娘を喜ばせる力が無い。だから自分で幸せになってください
娘さんは「ありがとうございます」と応えたそうですが、幸せになられましたでしょうか?
◆まとめ
武田鉄矢さんの母・イクさんは、8歳で両親と生き別れ、親戚の家でも疎まれ、洋服屋に奉公に出るなど大変な苦労を重ねてきました。
親に甘えていたい時期をこのように過ごし、いつか暖かい家庭を築きたいと思っていた事でしょう。
しかし、これまで見てきた通り、イクさんは本当に素晴らしい『家族』を築かれました。
今でも天国から、家族の様子を見守ってくれていることでしょう。
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