プロ野球選手として224勝を挙げ、監督としても日本一に輝いた、工藤公康さん。
今回は、そんな工藤さんを取り巻く『家族』にスポットを当て、ご紹介します。

◆家族構成・家系図
工藤公康さんの実家は当初、父親、産みの母親、男3兄弟の5人家族でした。
その後、両親が離婚・再婚し、父親、育ての母親、男5兄弟の7人家族となっています。
自身は4歳年下の妻との間に、5人の子供がいます。
上から、長男、長女、次女、三女、次男の順番です。

◆55歳で母の顔を知る
工藤公康さんは、1963年〈昭和38年〉5月5日、愛知県名古屋市で生まれました。
3人兄弟の三男でしたが、物心がつく前に両親が離婚。
幼い工藤さんは、生みの母親の顔をはっきりと知らないまま成長しました。
母親の写真は、父親が燃やしてしまい、自宅には残っていなかったといいます。
生みの母の面影をぼんやりとしか覚えていなかった工藤さん。
兄から初めて母親の写真を見せてもらったのは、55歳になってからのことでした。
プロ野球選手として数々の栄光を手にし、監督としてもチームを頂点へ導いた工藤さん。
その長い人生の中には、華やかな球場の光景だけでは語り尽くせない、幼い日の記憶が刻まれていたのです。
◆貧しさの中で育った少年時代
両親の離婚後、工藤さんは父親の実家がある宮崎県北浦町(現在の延岡市)で、母親のいない幼少期を過ごしました。
小学校に上がる前に名古屋市へ戻ると、父親は再婚。
気がつくと、新しい母親が隣に座っていたといいます。
新しい母親には、工藤さんより年上の男の子が一人いました。
その後、弟も生まれ、工藤さんは男ばかりの5人兄弟の4番目として暮らすことになります。
住まいは長屋で、暮らし向きは決して豊かではありませんでした。
学生服も洋服も靴下も、すべて兄のお古。
習字や絵の道具は使い回しで、ノートは文字でいっぱいになると、消しゴムで消して再び使いました。
七夕や子供会の集いでもらえるノートや鉛筆が、何よりも嬉しかったといいます。
欲しいものを自由に買ってもらえるわけではない。
明日の暮らしを心配するような環境の中で、少年は自分の毎日を懸命に生きていました。
◆自分の子供には同じ思いをさせない
そんな少年時代に、工藤さんは一つの思いを胸に刻みます。
それは、いつか自分が結婚し、子供を授かったときには、

絶対に同じ思いをさせない
という決意でした。
自分が味わった寂しさや、欲しいものを手にできない悔しさを、わが子には味わわせたくない。
小学生の頃に抱いたその思いは、

年月を重ねた今も変わらない
と、工藤さんは語っています。
やがて工藤さんは、プロ野球選手として長く活躍し、引退後には福岡ソフトバンクホークスの監督としてチームを率いることになります。
しかし、どれほど大きな成功を手にしても、少年時代に抱いた願いが消えることはありませんでした。
野球選手としての工藤公康を支えたものは、才能や努力だけではなかったのかもしれません。
貧しさの中で味わった思いを、次の世代には引き継がない。
その決意もまた、工藤さんの人生を形づくった大切な原点だったのでしょう。
◆父親との葛藤
工藤公康さんの幼少期を語るうえで、父親の存在は避けて通れません。
父親は、名古屋市で市営バスの運転手として働きながら、草野球チームでは捕手を務めるほどの野球好きでした。
そんな父親は、小学生の工藤さんをキャッチボールに誘います。
ただし、それは親子で楽しくボールを投げ合う時間ではありませんでした。
父親が構えたミットに正確に投げられなければ、ボールを捕ってもらえない。
ミットを地面にたたきつけ、家に帰ってしまうこともありました。
工藤さんは、父親から数え切れないほど殴られ、手が出ないときには足が出たと振り返っています。
帰宅すれば、今度は勉強をするように怒られる。父親の機嫌一つで家庭の雰囲気が変わる生活に、兄弟で何度も家出をしたこともありました。
しかし、そのたびに連れ戻され、再び暴力を受けたといいます。
父親は熱狂的な巨人ファンでした。
巨人が勝てば機嫌がよく、負ければ怒りをあらわにする。
地元の中日を応援していた工藤さんでさえ、父親の機嫌を損ねないよう、巨人の勝利を願っていたのでした。
少年にとって、野球は憧れのスポーツではありません。
父親の怒りを避けるために、何とかうまくならなければならないものだったのです。
◆野球が嫌いだった少年
父親は、当時人気を集めていた野球漫画『巨人の星』にも影響を受けていました。
工藤さんは素振りやシャドーピッチング、うさぎ跳びなどをやらされます。
投球を失敗すれば殴られる。
そこには、野球を楽しむ余裕などありませんでした。
それでも、工藤さんは工夫を重ねます。
家が貧しく、メンコやベーゴマ、ビー玉を買ってもらえなかった少年は、ラムネの瓶を割ってビー玉を取り出し、友達と勝負しました。
どうすれば勝てるのかを研究するうちに、ビー玉で指の力がつき、メンコでは手首の使い方を覚えていきます。
さらに、本屋で野球雑誌『週刊ベースボール』の投手の分解写真を立ち読みし、杉下茂さんらの解説を読みながら、見よう見まねでシャドーピッチングを繰り返しました。
後にプロ野球を代表する投手となり、鋭く曲がるカーブを武器にした工藤さん。
その技術の土台には、少年時代に自分なりに考え、試し、身につけたものもあったのです。
ただし、工藤さん自身は、野球を続けたいと思っていたわけではありませんでした。
小学3年生のときに野球部へ入ったものの、嫌いな先輩がいたため、4年生の夏ごろには退部。
家に帰ると父親に知られて怒られるため、体操部に入り、マット運動や鉄棒で時間をつぶしていたといいます。
そして、工藤さんは当時の自分について、

野球を続ける気など毛頭なかった
と語っています。
父親からは、中学校を卒業したら「でっち奉公に行け」と、しょっちゅう言われていました。
後にプロ野球で224勝を挙げ、現役引退後には監督としても数々の栄光を手にする工藤公康さん。
その出発点にあったのは、プロ野球選手になるという華やかな夢ではありませんでした。
むしろ、野球が嫌いで、将来の夢を描く余裕さえなかった少年が、目の前の厳しい現実を生き抜こうとしていた姿だったのです。
◆妻・雅子さん
工藤公康監督の奥さんの名前は、工藤雅子さん。
年齢は、工藤さんより4歳年下になります。
妻・雅子さんは茨城県鹿嶋市の出身で、過去には“ミス水戸”に選ばれるほどの美人。
2人が結婚したのは工藤さんが26歳の時でした。
当時の工藤さんは度重なる夜遊びで内臓はボロボロになり、医者から

このままだと死ぬよ
と宣告されていました。
体調の悪さは成績にも響き、落ち込んでいた工藤さんは、

来年ダメならクビ。そうしたら一緒に田舎で暮らそう
と、雅子さんに弱々しいプロポーズを…。
これに対し、雅子夫人は
このままでは悔しい。世間を見返してやりましょう
と答えたのだそうです。
ここから雅子夫人は、必死に栄養学やトレーニング方法などを勉強。
15種類のおかずを毎日食卓に並べ、48歳まで現役最年長投手として活躍する身体づくりに貢献しました。
食事以外でも、自宅に押し寄せた報道陣に嫌な顔一つせず、記者を自宅にあげておもてなし。
帰りには、“会社用”と“記者用”の2種類のお土産を用意したそうです。
ホークス時代、工藤さんは家族と離れ福岡でマンションの一室を借りていますが、“単身赴任”というわけではありません。
福岡で試合をする時は、横浜から雅子夫人が来て、食事を中心に監督のサポートをしてくれたのだそうです。
そんな工藤さんの楽しみは、福岡と横浜以外の遠征先で、ポテトチップスを食べること。
できた奥さんの前では、食べれないのですね(^_^;)
◆長男は俳優・工藤阿須加
工藤公康さんの長男の名前は、工藤阿須加(くどう・あすか)さん。
1991年〈平成3年〉8月1日生まれになります。
工藤さん待望の男の子であったと思いますが、意外なことに野球経験はゼロ。
親子で初めてキャッチボールをしたのは、高校2年生のときだったと言いますが、背景には工藤さん自身の複雑な生い立ちが関係していたのでしょう。
その代わりと言ってはなんですが、長男・阿須加さんはテニスの実力者で、高校時代は県大会で優勝した経験を持ちます。
テニスのプロを目指してもおかしくない実力でしたが、阿須加さんが選んだのは役者の道でした。
2012年、日本テレビのドラマ『理想の息子』で俳優デビュー。
2014年、TBS日曜劇場『ルーズヴェルト・ゲーム』では、社会人野球部の投手役を演じました。
この役を得るために、約100名の応募者の中からオーディションを勝ち抜いた阿須加さん。
役作りは、
エースピッチャーの役なので、父に相談しました。体重移動や脱力、そのほかにも厳しく指導してくれています
と、家族のアドバンテージを活用して行いました。
阿須加さんのフォームを見た元プロ野球選手は
もったいない。野球をやっていればいい選手になっただろうに…
と漏らしていたそうです。
◆長女はプロゴルファー・工藤遥加
工藤公康監督の長女の名前は、工藤遥加(くどう・はるか)さん。
1992年〈平成4年〉11月18日生まれになります。
長女の遥加さんの職業は、プロゴルファー。
野球選手として不在がちな父と、
会話を増やすきっかけになれば…
と考え、12歳でゴルフを始めました。
その後、ゴルフの強豪である東北高等学校へ進学しましたが、より多くラウンドをこなすため通信制の日出高等学校に転校。
2010年の千葉国体では、ゴルフ女子の千葉県代表に選出され、団体戦で4位の成績をおさめます。
2011年7月にJLPGAのプロテストを受験し、通算9オーバーの9位で合格しました。
身長171cm・65㎏の恵まれた体格を活かして、2025年にはアクサレディス in MIYAZAKIにて初Vを獲得しています。
◆次女と三女
工藤公康監督の2番目の娘の名前は、工藤阿弥香(くどう・あやか)さん
3番目の娘は、工藤阿偉(くどう・あい)さんです。
◆次男・工藤拓也
工藤公康監督の末っ子で、次男の名前は工藤拓也(くどう・たくや)さん。
2000年〈平成12年〉2月2日生まれになります。
5兄妹の中で、唯一野球に打ち込んできた拓也さん。
野球を始めたのは小学校6年の終わりごろで、学校でやっていたドッジボールで投げる楽しさを知ったからでした。
工藤さんが、野球をすすめた訳ではありません。
地元の軟式野球チーム、地元の中学軟式野球部でプレーした後、より高いレベルでの野球を目指して、強豪の軟式野球クラブ「川崎ロッキーズ」へ移った拓也さん。
しかし、ここで拓也さんは足首と肘をそれぞれ骨折してしまう大ケガを2回してしまい、約9カ月間野球から遠ざかりました。
高校は、スポーツ推薦で強豪・桐蔭学園へ進んだものの、大きなブランクとその間に大きく成長した身体は、野球の感覚を鈍らせていました。
その後様々な事が起こり、1年生の9月で野球部を去ることに…。
その後、拓也さんは両親と相談の上、2年の4月から日本ウェルネス高校へ転校しました。
同校は、通信制の高校ですが、様々な選手を受け入れた中で強化を進め、2016年夏には東東京大会の16強入りを果たしています。
転校した場合、
1年間は公式戦に出場できない
という高野連のルールがあるため、甲子園のチャンスは3年生の夏のみ。
しかし拓也さんは3年でもレギュラーを取れず、「控えの外野手兼一塁コーチ」で終わることになりました。

お前がたとえ下手でも俺の息子とか関係ないよ。自分なりの野球をして、もし試合に出られなくても、そこで良い経験ができるから、しっかりやりなよ
と励ましてくれたという工藤さん。
息子が試合に出ないと分かっていても、一回戦を観に来てくれたそうです。
◆エピローグ
2025年〈令和7年〉——。
工藤家に嬉しいニュースが届きました。
工藤公康さんに、初孫が誕生したのです。
工藤さんは以前、

いつか孫ができたら。孫となら喜んでキャッチボールとかしちゃうんだろうな。そんな日が来るのを願ってます
と話しています。
かつて父親とやった、恐怖と隣り合わせのキャッチボール。
長男・阿須加さんとやった、一度だけのキャッチボール。
そしていつか孫とやるであろう、心に描くキャッチボール。
少年時代には、想像することもできなかった野球人生。
父親との葛藤を経て、子供たちを育て、今、その先に孫という新しい世代が生まれました。
いつか孫と交わすキャッチボールは、かつての自分とは違う家族の時間になるのかもしれません。
◇出典
- 西日本新聞「生みの母の顔を知ったのは55歳の時でした 工藤公康さん聞き書き『生きる力を身につける』(2)」(2026年1月28日)
- 西日本新聞「野球を続ける気なんて、毛頭ありませんでした 工藤公康さん聞き書き『生きる力を身につける』(3)」(2026年1月29日)
- 日刊スポーツ「工藤阿須加『ついに工藤家に、おいっ子できまして』父工藤公康氏がおじいちゃんになったと明かす」(2025年10月31日)
- 日本女子プロゴルフ協会「悲願4991日 工藤遥加がツアー初優勝」(2025年3月30日)
◇編集後記
奥さんの指導もあり、すっかり健康オタクとなった工藤公康さん。
現在は毎日、酵素サプリメントを愛用しているそうです。
OM-X…工藤公康さん愛用の生酵素サプリで快適生活https://t.co/FEBS0Bkls9 pic.twitter.com/6KJDrpAeTN
— カゲロウ (@Kagerou_Kazoku) March 21, 2022
これは、OM-Xの生酵素サプリですね。
OM-X 12PLUS(オーエム・エックス12プラス) 100粒入り
OM-Xの最大の特徴は、酵素生成過程で、3年の間、一切加熱を行わないこと。
時間はかかりますが、その分、質の高い酵素が出来上がります。
工藤さんは、

ここ何年も朝から快チョー!
と話しているのだとか。
サプリと奥さまに感謝ですね😉





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