うめむら・みずほ【梅村みずほ】
1978年〈昭和53年〉9月10日生まれの政治家(参議院議員、参政党所属)。
◆実家・生い立ち
梅村みずほさんは愛知県名古屋市に生まれました。
父の転勤に伴い、幼少期から愛媛県、山口県、滋賀県、富山県と、さまざまな地を転々としながら育ちました。[1]
高校は富山県立呉羽高等学校に進学。
そこで培われた感受性と表現力は、後のアナウンサーや政治家としての原点ともなります。
大学は京都の立命館大学文学部に進学し、ことばや人間への探究心を深めていきました。[1]
◆父親:金融業界に勤務
梅村さんの父親の名前は勝さん。[2]
1945年〈昭和20年〉春に誕生されました。
金融業界で働く転勤族の父・勝さんは、
「24時間働けますか」「男は黙ってサッポロビール」
を体現するような、昭和の典型的な男性像の持ち主でした。[3]
戦後という厳しい時代に育ち、「長男としてのあるべき姿」を親から教え込まれてきたという勝さん。
親族や実家を何よりも大切にし、祖母との関係ではいわゆる「嫁姑戦争」も起き、家庭内に緊張をもたらすこともありました。[3]
晩年は末期がんを患い、2018年頃に逝去されました。
余命半年と診断された後、1年きっかりで旅立たれたその姿には「律儀な父らしさ」があったと、梅村さんは振り返ります。
最期の瞬間、
人生で一番良かったことは?
という孫の質問に、声の出ない父が母を指さし、出会ったことを示してくれたというエピソードは、多くの人の心に残る家族の証です。
◆母親:宗教に傾倒
梅村さんの母親は専業主婦で、結婚当初から長男の嫁として親戚づきあいを支える一方、転勤族の夫を支えて各地を移り住んできました。[3]
25歳で結婚し、理想の家庭を築こうと努力していたものの、嫁姑の確執や家庭での孤立感に悩み、ある宗教に傾倒するようになります。
梅村さんが小学5年生の頃のことでした。
母の宗教活動は次第に家庭生活にも影響を与え、父との関係は険悪化。
ついには刃物沙汰に発展するほどの争いもありました。
梅村さんはその渦中で、母の涙を見つめながら「お母さん、大丈夫?」と声をかけ続けたといいます。
一時は「娘たちが支え」と話していた母でしたが、やがて「神様がいるから大丈夫」と語るようになったことで、梅村さんは心にひとつの区切りをつけたとも語っています。
それでも父の最期の時、母は父の隣で涙を流し、「人生で一番良かったこと」に選ばれた自分を受け止めていました。
家族の再生を思わせるその光景は、梅村さんに深い感動を与えました。
◆姉:2歳年上
梅村さんには2歳年上の姉がいます。[3]
幼少期は両親と姉からたっぷりと愛情を受けて育ったと感じていたそうです。
しかし母の宗教活動が深まるにつれ、姉もまた教義に傾倒していきました。
家族の中では、母と姉が信仰を深めていく一方、梅村さんは次第に距離を置いていくことになります。
父の闘病期には、母と姉と共に介護に尽力。
形は歪でも「縁があって家族になった」ことを実感する日々となりました。
◆夫
梅村さんの夫の名前や生年月日は公表されていませんが、2019年の参議院初登院の際には、夫と子どもたちの4人で国会に臨んでいました。[4]
梅村さんの政治活動に深い理解を示し、家族として支えている存在であることが伺えます。
◆子供:長男と長女
梅村さんには2人の子供がいます。
第1子は男の子で、2018年頃には5歳だったとされるため、2013年〈平成25年〉頃の生まれと思われます。[3]
父の闘病中、祖父に「人生で一番良かったことは何ですか?」と質問し、家族の再生に立ち会ったその姿は、幼いながらも家族への愛を感じさせます。
第2子は女の子で、2020年時点で6歳なので、2014年〈平成26年〉頃の生まれだと思われます。
この投稿をInstagramで見る
◆まとめ
これまで見てきたとおり、梅村みずほさんの活躍の陰には、温かくも複雑な“家族”の姿がありました。
宗教、家父長制、転勤族、介護と育児のWケア…。
家庭の中で直面したすべての経験が、いま政治家としての信念の根幹を支えています。
家族の応援を胸に、梅村みずほさんの挑戦はこれからも続いていきます(^o^)丿
◇出典
- Wikipedia「梅村みずほ」2024年6月時点
- X(旧Twitter)2022年8月15日 梅村みずほ【参政党】全国比例候補 日本人ファースト
- 日本維新の会公式WEBサイト 2022年9月 梅村みずほが「今だから」代表選に名乗り出た理由―政治家の資質を育んだ半生を振り返る2万字インタビュー
- 梅村みずほメルマガ 2019年12月30日配信 トークスキルラボメルマガFINAL of FINAL
コメント