広島東洋カープに所属する、中村奨成選手。
トマトが苦手です!
今回は、そんな中村選手を取り巻く『家族』にスポットを当て、ご紹介します。
生年月日:1999年〈平成11年〉6月6日
身 長:181cm
血液型 :B型
出身地 :広島県廿日市市
◆実家・生い立ち
中村奨成選手は、広島県廿日市(はつかいち)市の出身。
廿日市市立大野東小学校の1年生の時に、地元チームの「大野友星」に入り、軟式野球を始めました。
小学生の頃はあまり野球を知らなかったという中村選手。
人と違うポジションをやりたかったんです。1人だけ反対方向を向いていて、面白そうだなと思って
という理由で、キャッチャーを志望しました。
廿日市市立大野東中学校に進むと、「大野シニア」に入団。
中学3年生時には、「日刊スポーツ新聞杯瀬戸内中学生野球大会」など5つの大会で優勝しました。
地元広島の強豪・広陵高校に進学すると、1年生からレギュラーとして活躍しています。
◆母子家庭で育ててくれた母…
中村奨成選手のお母さんの名前は、中村啓子さん。
1973年頃の生まれになります。
母子家庭で中村選手を育てた啓子さんは、
子どもに野球しかさせたくなかった
という、熱烈な広島カープ・ファン。
そんな母親の影響もあり、中村選手は小学1年から野球を始めたのでした。
小学生のころは、母・啓子さんを相手にキャッチボールを繰り返した中村選手。
小学生の頃から体作りにも取り組み、自分で調べて体には鶏肉がいいと知ると、母親に鶏肉料理を注文しました。
たくさん食べる子で、よく鶏肉のカツなど作りました
と思い出す母・啓子さん。
181cm・81kgの体格は、母の愛情の賜物なのですね(*^_^*)
◆母を心配させた中学時代
中村奨成選手は中学時代も、時間があれば家の前で、母親にバドミントンの羽根を上げてもらい、打撃練習を重ねました。
しかし、思春期を迎えた中村選手は、品行方正とは言いがたい方向へ向かいます。
野球だけうまかったらええんや
と、周囲へは横柄な態度をとり、髪形も学校で注意されそうな感じ…
母・啓子さんも心配していたことでしょう。
そんな折、勧誘に来たはずの広陵・中井監督は、
ウチにはいらん!
と言い放ち、親の前で大説教。
お母さんを大事にしろ。親を大事にせんやつが、他人をいたわれるか。そんなやつが野球がうまくなれるか
と言い聞かせました。
折しも、
自分を変えようと思っていた
という中村選手。
中井監督の言葉が心に突き刺さり、その指導を受けたいと広陵への進学を決意したのでした。
◆母の元を離れ、寮生活へ
そして、広陵高校では母の元を離れ、寮生活へ。
携帯電話禁止の厳しい寮生活ですが、母の日には公衆電話から毎年欠かさず電話をし、
ありがとう…
と、照れながらも一番好きな言葉を伝えています。
中村選手は1年生で正捕手に抜擢されましたが、そのプレッシャーからか、
ご飯が食べれん…
と、母・啓子さんに電話があったことも。
電話では気丈に振る舞った啓子さんでしたが、電話を切った後は涙が出たそうです(T_T)
3年生で甲子園へ出発する前には、
最後だから楽しもうね。お母さんも楽しむよ
と手紙を渡されました。
返事は返せませんでしたが、
支えてもらった分、この舞台で恩返ししたい…
と、甲子園での活躍を誓っています。
◆母はアルプススタンドで祈る…
高校3年で迎えた夏の甲子園では、お母さんは「日本一」の文字が入ったネイルをつけ、息子の活躍を見守っています。
天理高等学校との準決勝。
中村奨成選手は2本塁打を放って合計「6本」とし、清原和博(きよはら・かずひろ)氏の1大会個人本塁打記録の「5本」を更新しました。
中村選手は、
『こんなので満足するな』ってカツを入れられそう。明日勝って母ちゃんに感謝の気持ちを伝えたい
と語り、気を引き締めています。
母・啓子さんは、三塁側アルプススタンドで観戦。
試合終了時には保護者同士で涙を流して喜びましたが、
まだ1試合あるんで…
と、さらなる活躍に期待を込めました。
迎えた花咲徳栄(はなさきとくはる)高等学校との決勝戦。
中村選手は、5打数3安打の活躍を見せ、
- 1大会個人最多本塁打 6(大会新)
- 1大会個人最多打点 17(大会新)
- 1大会個人最多塁打 43(大会新)
- 1大会個人最多安打 19(大会タイ)
- 1大会個人最多二塁打 6(大会タイ)
- 大会5度目の猛打賞(史上初)
という記録を樹立しましたが、試合は14-4で敗れています。
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