2016年のリオデジャネイロ五輪を前に、公務員ランナーの川内優輝選手に注目が集まっています。
今回は、そんな川内選手を育み、支えてきた『家族』にスポットを当て、ご紹介します。
◆父親の職業は?
川内優輝選手のお父さんの名前は、川内葦生(あしお)さん。
お父さんは島根県隠岐島の出身で、高校時代に国体にも出場したアマチュアボクサーでした。
大学まではボクシングを続けますが、プロの世界では通用しないと考え、葦生さんは就職を選択します。
職業は、大手芸能プロダクションで新人発掘を担当していました。
しかし、お父さんはボクシングに関して「これで良かった」とまでは割り切れません。
その思いは、自然と息子へと向かい、陸上経験はなかったものの、川内選手と一緒に練習をしたり、応援に駆け付けたりしました。
お父さんは技術的な指導はしないものの、おしゃべり好きな優輝さんの世間話や愚痴を受け止める聞き役。
川内選手が高校生になると、お父さんは試合前にマッサージをしてあげるようになります。
マッサージを受けながら、あれこれ話す父子の時間は、川内選手の心に大きな安心感を与えたのでした。
◆母親の画像!
川内優輝選手のお母さんの名前は、川内美加 (みか)さん。
1964年5月9日生まれなので、年齢は51歳になります。
お母さんは東京都出身で、中学、高校時代は陸上部に所属し800メートルや1500メートルを走っていました。
しかし、高校生になってアルバイトを始めると、そちらの方が楽しくなってしまい、いつの間にか部活に出なくなってしまいます。
もうちょっと真面目にやっていれば、インターハイに行けたんじゃないか
陸上に未練が残ってしまったお母さんには、「優輝が私の代わりに走ってくれたら…」という期待感がありました。
川内選手が小学生に上がると、お母さんとの「走る」トレーニングが始まります。
トレーニングは厳しく、その日の練習で設定したタイムを突破できないと、「罰ゲーム」を与えました。
「罰ゲーム」の中には、練習場である公園に「置いてけぼり」というものもあり、お母さんが車で帰った後ろを走って帰ったこともあります。
あまりに厳しいトレーニングに、通りがかりの人から「子供相手に厳しすぎる」と言われたこともありました(^^;)
しかし、厳しいトレーニングがなければ、今の川内優輝選手の活躍はなかったことでしょう。
お母さんは、「走ること」について、次のように語っています。
走ることと一緒に家族が成長してきたって感じがあるんです、うちの場合は。
だから、うちは走ることと切っても切れないんです
このように語るお母さんの画像はこちら。
ビックリするくらい、川内選手に似ていますね!
◆上の弟は國學院で箱根駅伝に出場?
川内優輝選手には弟が2人いて、次男の名前は川内鮮輝(よしき)さん。
年齢は、24歳なので、優輝さんより4歳年下になります。
鮮輝さんも長距離選手であり、箱根駅伝に憧れて國學院大学に進みましたが、4年間一度も箱根を走るチャンスはありませんでした。
大学卒業の間際、「第1回サンスポ古河はなももマラソン」でフルマラソンに初挑戦し、2時間22分54秒のタイムで優勝。
箱根駅伝のリベンジを果たしました。
2013年4月からは、東京都板橋区の「共立印刷」に就職し、「営業マンランナー」として活躍しています。
◆下の弟は高崎経済大学を卒業後…
川内優輝選手の下の弟の名前は、川内鴻輝(こうき)さん。
1992年9月8日生まれで、年齢は23歳なので、川内選手より5歳年下になります。
鴻輝さんも2歳の時から、お母さんの厳しい指導を受けて育ち、長距離ランナーとしてキャリアを重ねてきました。
高崎経済大学を卒業した後は、「バイトランナー」となっていましたが、2015年4月、「白木屋」「魚民」を経営する(株)モンテローザに就職。
4人目のマラソン部員として、自由に走りを楽しんでいます。
自分の実力では会えなかった人たちに会うことができた
鴻輝さんは、マラソンに関わる多くの人たちと出会わせてくれた優輝さんに、とても感謝しています。
しかし、「いつかは兄を超えたい」という熱い心も、胸の中で燃え続けています。
◆まとめ
2005年2月、川内選手のお父さんは心筋梗塞で急逝します。
ショックで何もしゃべれなくなってしまったお母さんに代わって、告別式の挨拶をつとめたのは、当時高校3年生だった優輝さんでした。
父のこと、忘れないでください
奇しくもこの後、大学に入った時から、川内選手の本当の活躍は始まります。
お父さんが、天国から後押ししてくれたのは、間違いないでしょう。
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