萩本欽一の『家族』~ストリップで下積みを支えた糟糠の妻と3人の息子たち

“視聴率100%男”として伝説を築いたコメディアン、萩本欽一さん。

今回は、そんな萩本さんを支えた『家族』の物語です。

【プロフィール】
名前:萩本欽一(はぎもと・きんいち)
生年月日:1941年(昭和16年)5月7日
身長:164cm
血液型:A型
出身地:東京都台東区
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◆実家は稲荷町の長屋

萩本欽一さんは、東京府東京市下谷(したや)区(現・東京都台東区)の出身。

実家は稲荷町の長屋で、カメラの製造販売業を営んでいました。

家業は成功し、埼玉県浦和市に家を建てて転居。

浦和の家はとても大きくて広い庭があり、お手伝いのお姉さんからは「欽一おぼっちゃま」と呼ばれていたそうです。

浦和市立高砂小学校時代は、成績もお行儀もいい優等生で通っていました。

しかし、萩本さんが小学校5年の時に、父親の会社が倒産します…

家には借金取りが連日押し寄せるようになり、一家は再び稲荷町の長屋に居を移し、中学3年の時には文京区丸山町に転居しました。

その後も極貧生活を余儀なくされ、萩本さんが駒込高等学校在学中に一家は夜逃げ。

両親は、地元である香川県に帰っていきました。

◆カメラ職人の父

萩本欽一さんの父親の名前は、萩本団治さん。[1]

父・団治さんは香川県小豆島の出身で、実家はまんじゅう屋さんでした。

小学校を終えると大阪で薬問屋に奉公し、株の仲買店などで働きます。

その後、小豆島に戻って結婚し、夫婦で上京しました。

東京に出て間もなく、お父さんは稲荷町の長屋でカメラ店を始めます。

戦争がひどくなり、疎開で東京を離れるカメラ店の店主から次々に店を買い取ったお父さん。

事業拡大が目的ではなく、むしろ店の処分に困った人を助けるつもりだったそうです

結局、戦争が終わるころには、稲荷町から銀座まで7つの店まで拡大しました。

カメラ製造も始め、「団治」の名にちなんだ「ダンカメラ」の商標で、一定の人気を博します。

日本カメラ博物館には今でも、父親が作った「ダン35」と言うモデルが展示されているそうです。[2]

◆教育熱心な母

萩本欽一さんの母親の名前は、トミさん。[1]

父・団治さんは、

おまえたちの母さんはな、日本にまだ3人しかいなかったころのタイピストだったんだぞ

と言って、母・トミさんのことを自慢していました。

実際、当時としては珍しく、女子高等師範学校を出て、BG(ビジネス・ガール)をしていたそうです。

そんなトミさんと、団治さんの馴れ初めは、ちょっと変わっています。

あるとき、父・団治さんは、別の女性とお見合いするために、相手方の家に出向きました。

ところが何故か、その家は留守だったのです。

うろうろしている団治さんに、隣の家のおかみさんが、

うちでお茶でも飲みながらお待ちなさい

と言ってくれたので上がり込み、その家にいたトミさんに一目ぼれしたのでした。

母・トミさんは教育熱心だったけれど、ガリ勉を強いることはありませんでした。

テストでクラスで一番をとって報告しても、

勉強は大事だけど、勉強ばかりして一番になってもだめなの。友達と遊びなさい

と言われたそうです。

しかし、字の練習だけは厳しくて、ちょっとでも雑に書くと、

字は人様に読んでいただくんだから、丁寧に書きなさい

と言って、手をぴしっと叩かれるのでした。

◆6人兄弟の第5子で三男

萩本欽一さんは、6人兄弟姉妹の5番目で、三男に当たります。[1]

第1子は長男のさんで、14歳年上。

第2子は長女の玲子さん。

第3子は次男の安是(やすよし)さんで、9歳年上。

第4子は次女の圭子さん。

第5子は三男の欽一さん。

第6子は四男の悦久さんで、2歳年下になります。

長兄の萩本功(はぎもと・いさお)さんは、プラスロン化粧品の会長をつとめています。

弟の萩本悦久(はぎもと・よしひさ)さんは、以前、東京創価小学校の校長を務めていました。

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◆ストリップで下積みを支えた糟糠の妻

①妻・澄子さんとの馴れ初め

萩本欽一さんは、人気絶頂の35歳のときに結婚しています。

奥様の名前は、澄子さん。

年齢は、萩本さんより3歳年上になります。

妻・澄子さんとの馴れ初めは、萩本さんが浅草のストリップ劇場である東洋劇場に入ったころでした。

当時の澄子さんは、劇場で一番人気の踊り子さん。

新人の萩本さんにとっては、目を合わせるのも恐れ多い「雲の上」の存在でした。

②記者会見でプロポーズ

やがて澄子さんは、萩本さんを気に入り、2人は同棲を始めます。

しかし、萩本さんがコント55号で有名になったら、澄子さんは浅草から姿を消してしまいました。

足手まといになると思ったのでしょう

どうにか見つけ出して復縁しますが、やがて子供を身籠ると、澄子さんはまたいなくなります。

そこで萩本さんは記者会見を開いて、

じつは僕、結婚してます。子どももいます

と発表しました。

テレビで見ていた澄子さんは驚きましたが、これが萩本さんからのプロポーズでした。

澄子さんは、

芸能人の奥さんなんてなりたくない。いい迷惑よ

と嫌がりましたが、どうにか頼み込んで、結婚してもらったのだそうです。

◆3人の息子たち

萩本欽一さんには、3人の息子さんがいます。

1975年生まれの長男の名前は、萩本一童さん。

1978年生まれの次男は、萩本越史さん。

1980年生まれの三男は、萩本征九郎さんです。

◆まとめ

2020年8月28日、最愛の妻・澄子さんは、がんのため亡くなりました。

しかし萩本さんは、葬式でも火葬場でも、一度も手を合わせていません。

死に顔も見ていません。

家にある仏壇にも、一度もお線香をあげたことがありません。

理由は、そんなことをしたら、まるで澄子さんが死んでしまったみたいだから。

澄子さんは生きているのです✨

萩本さんの心の中で、生き続けているのです。

そうして萩本さんの活躍を、近くで見守ってくれていることでしょう。

澄子さんの声援を胸に、萩本さんの挑戦は続いていきます(^o^)丿

◇脚注

  1. 日本経済新聞 2016年7月12日 両親の記憶 萩本欽一(2)不自由なく、すくすく 事業家の父、賢く気丈な母
  2. テレビ東京 2019年4月26日 朝の!さんぽ道【半蔵門】旅人:渡辺正行
  3. 週刊ポスト 2021年2月12日号 妻に先立たれた萩本欽一の別れの作法「僕は妻に線香をあげない」

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