川淵三郎の『家族』~妻との間に娘が2人…海沿いの実家に父と母と兄2人

Jリーグ初代チェアマン、日本サッカー協会の会長を務めた、川淵三郎さん。

今回は、そんな川淵さんを取り巻く『家族』の物語です。

【プロフィール】
名前:川淵三郎(かわぶち・さぶろう)
生年月日:1936年12月3日
身長:172cm
出身地:大阪府高石市
出身大学:早稲田大学第二商学部
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◆実家は大阪・高石

①海の近くの実家

川淵三郎さんは、大阪府高石町(現・高石市)の出身。

父親が海が好きだった影響で、実家は高師浜のすぐ近くにありました。

幼少期の川淵さんは「海の子」として育ちます。

学校から帰るとフンドシをしめ、高師浜に素足で直行。

素潜りをしながらハマグリを獲り、漁師の子から舟の漕ぎ方を教わり、白砂の広場で野球で遊んだりしていました。

高石町立高石国民学校の4年生の時に、川淵さんは生涯の師と出会います。

児童文化研究家の吉岡たすくさんが、教師として赴任してきたのです。[1]

吉岡さんが主宰する劇団に入った川淵さんは、演劇に夢中になり、NHKや民放の放送劇にたびたび出演しました。

1949年に高石町立高石中学校に入ると、誘われる形で野球部に所属。

なかなかサッカーを始めませんね…

3年生の時には、大阪府の準硬式の大会で決勝まで進みましたが、惜しくも準優勝に終わりました。

②高校でサッカーを始める

1952年、大阪府立三国丘高等学校に入学。

同校のサッカー部は、前年に全国大会で準優勝した強豪であり、

サッカー部に入ったら夏休みに四国へ行ける

と誘われたため、サッカー部に入部しました。

ようやくサッカーを始めました!

しかし、当時のサッカーへの印象は「汚れるし痛い」というもの。

目的であった四国旅行を果たした川淵さんは、退部を申し出ます。

しかし、先輩たちは、

部員が11人切ると試合がでけへん

と悲し気に引き留めました。

強豪にしては、部員が少ないですね…

仕方なく残留した川淵さんは、厳しい練習に耐え、3年生時に全国選手権に出場。

ベスト8で熊本工業に敗れましたが、当時の毎日新聞に「超高校級FW」と評されています。

◆スポーツマンの父

川淵三郎さんの父親の名前は、川淵真一さん。[1]

1901年(明治34年)生まれです。

父・真一さんは大阪出身で、福徳生命で働きながら、関西大学専門部経済学科を卒業しています。

真一さんは剣道と柔道の有段者で、当時は珍しい野球のグローブやテニスのラケットを持っていました。

川淵さんのスポーツの才は、父親譲りですね

しかし、川淵さんが幼いころに、真一さんは陸軍に招集され、中国各地を転戦します。

除隊後は南方ジャワに渡り、サトウキビから燃料を作る工場建設に従事。

戦後、ようやく帰還した父・真一さんは、すっかり人嫌いに変わっていました。

帰国後も姫路の工場に単身赴任し、月に一度くらいしか帰らなかったため、川淵さんはお父さんの記憶があまりありません。

◆性格は母親譲り

川淵三郎さんの母親の名前は、川淵淑子さん。[1]

年齢は、父・真一さんより1歳年下になります。

母・淑子さんは奈良県出身で、結婚前は電話局につとめていました。

真一さんとはお見合い結婚だったそうです

淑子さんは明るい性格で、父親が不在がちの家を、病院で働きながら支えました。

川淵さんの明るい性格と、字を書くのが好きな性分は、母親譲りなのだそうです。

◆3兄弟の末っ子

川淵三郎さんは、男ばかり3人兄弟の末っ子になります。[1]

川淵さんが「三郎」だから、長兄は「一郎」、次兄は「次郎」…

と言いたいところですが、長兄の名前は「義明」さん、次兄は「邦彦」さんだそうです。

長兄・義明さんは、天王寺師範学校を出て小学校の先生になりましたが、結核を患い辞職。

その後は、設計関係の仕事をするようになりました。

次兄・邦彦さんは、関西大学を卒業し、奥村組の役員となりました。

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