Jリーグ初代チェアマン、日本サッカー協会の会長を務めた、川淵三郎さん。
今回は、そんな川淵さんを取り巻く『家族』の物語です。
◆実家は大阪・高石
①海の近くの実家
川淵三郎さんは、大阪府高石町(現・高石市)の出身。
父親が海が好きだった影響で、実家は高師浜のすぐ近くにありました。
幼少期の川淵さんは「海の子」として育ちます。
学校から帰るとフンドシをしめ、高師浜に素足で直行。
素潜りをしながらハマグリを獲り、漁師の子から舟の漕ぎ方を教わり、白砂の広場で野球で遊んだりしていました。
高石町立高石国民学校の4年生の時に、川淵さんは生涯の師と出会います。
児童文化研究家の吉岡たすくさんが、教師として赴任してきたのです。[1]
吉岡さんが主宰する劇団に入った川淵さんは、演劇に夢中になり、NHKや民放の放送劇にたびたび出演しました。
1949年に高石町立高石中学校に入ると、誘われる形で野球部に所属。

なかなかサッカーを始めませんね…
3年生の時には、大阪府の準硬式の大会で決勝まで進みましたが、惜しくも準優勝に終わりました。
②高校でサッカーを始める
1952年、大阪府立三国丘高等学校に入学。
同校のサッカー部は、前年に全国大会で準優勝した強豪であり、
サッカー部に入ったら夏休みに四国へ行ける
と誘われたため、サッカー部に入部しました。

ようやくサッカーを始めました!
しかし、当時のサッカーへの印象は「汚れるし痛い」というもの。
目的であった四国旅行を果たした川淵さんは、退部を申し出ます。
しかし、先輩たちは、
部員が11人切ると試合がでけへん
と悲し気に引き留めました。

強豪にしては、部員が少ないですね…
仕方なく残留した川淵さんは、厳しい練習に耐え、3年生時に全国選手権に出場。
ベスト8で熊本工業に敗れましたが、当時の毎日新聞に「超高校級FW」と評されています。
◆スポーツマンの父
川淵三郎さんの父親の名前は、川淵真一さん。[1]
1901年(明治34年)生まれです。
父・真一さんは大阪出身で、福徳生命で働きながら、関西大学専門部経済学科を卒業しています。
真一さんは剣道と柔道の有段者で、当時は珍しい野球のグローブやテニスのラケットを持っていました。

川淵さんのスポーツの才は、父親譲りですね
しかし、川淵さんが幼いころに、真一さんは陸軍に招集され、中国各地を転戦します。
除隊後は南方ジャワに渡り、サトウキビから燃料を作る工場建設に従事。
戦後、ようやく帰還した父・真一さんは、すっかり人嫌いに変わっていました。
帰国後も姫路の工場に単身赴任し、月に一度くらいしか帰らなかったため、川淵さんはお父さんの記憶があまりありません。
◆性格は母親譲り
川淵三郎さんの母親の名前は、川淵淑子さん。[1]
年齢は、父・真一さんより1歳年下になります。
母・淑子さんは奈良県出身で、結婚前は電話局につとめていました。

真一さんとはお見合い結婚だったそうです
淑子さんは明るい性格で、父親が不在がちの家を、病院で働きながら支えました。
川淵さんの明るい性格と、字を書くのが好きな性分は、母親譲りなのだそうです。
◆3兄弟の末っ子
川淵三郎さんは、男ばかり3人兄弟の末っ子になります。[1]

川淵さんが「三郎」だから、長兄は「一郎」、次兄は「次郎」…
と言いたいところですが、長兄の名前は「義明」さん、次兄は「邦彦」さんだそうです。
長兄・義明さんは、天王寺師範学校を出て小学校の先生になりましたが、結核を患い辞職。
その後は、設計関係の仕事をするようになりました。
次兄・邦彦さんは、関西大学を卒業し、奥村組の役員となりました。
◆妻との馴れ初め
①妻との馴れ初め
川淵三郎さんは、1962年12月11日、26歳で結婚しています。
奥様の名前は、康子さんです。[1]
妻・康子さんとの馴れ初めは、川淵さんが高校を出て浪人生活を送っていたころ。
南海電鉄の羽衣駅前で、羽衣学園の女生徒たちが通りかかりました。
その中で、ひときわ目立つ、長身で楚々としたたたずまいの女性に心を動かされます。
それが後に奥さんとなる康子さんでした。
後に同級生のいとこであることが分かり、名前までは調べたものの、それっきり4年が経過。
早稲田大学の3年生となっていた川淵さんは、大阪に帰省した時に、電車の中で康子さんを見かけます。
勇気を出して、
あの…淡野さん(康子さんの旧姓)でしょ?
と声をかけた川淵さん。
それから東京と大阪の遠距離恋愛を実らせ、3年後にゴールインしました。

まさにナイスゴールですね!
②結婚式
2人の結婚式は、大阪の高島屋で挙げました。
仲人は人生の師である、吉岡たすく先生です。
この時、日本代表は東京で合宿中で、合宿を抜け出して結婚式を済ませ、午後6時の飛行機で帰京。
翌日のディナモ・モスクワ戦に出場し、名キーパーであるヤシンから1ゴールを奪いました。

花嫁に捧げるゴールとなりました
◆2人の娘
川淵三郎さんには、娘が2人います。[1]
長女の名前は純子さん。
次女は英子さんです。
◆まとめ
川淵さんは幼いころ、「三郎」という名前が好きではありませんでした。
兄たちにくらべ、名前が“手抜き”に感じられたためです。
そんな息子の気持ちを知った母・淑子さんは言いました。
「三郎」は一か八かの面白い人生を歩む名前らしいよ
この言葉は、川淵さんの人生を大きく変えるひと言となりました。
以来、難局に直面するたびに、
どうせ俺の人生、一か八だから
と割り切り、大きな決断を可能としています。
これまで見てきた通り、川淵三郎さんの活躍の陰には、温かく支えてくれた『家族』の姿がありました。
これからも家族の応援を胸に、川淵さんの挑戦は続いていきます(^o^)丿
◇脚注
- 日本経済新聞 2008年2月1日~29日 私の履歴書 川淵三郎
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