【柴田理恵】の家族~夫はWAHAHA本舗の舞台監督。7年間の遠距離介護で深まった母娘の絆

女優やタレントとして、舞台からテレビまで幅広く活躍してきた柴田理恵さん。

明るく豪快なキャラクターで知られる一方、プライベートでは、富山で暮らす母親を東京から支え続ける「遠距離介護」を経験してきました。

今回は、そんな柴田理恵さんを取り巻く「家族」の物語です。

名  前:柴田理恵(しばた・りえ)
生年月日:1959年〈昭和34年〉1月14日
出身地 :富山県
身  長:156cm
血液型 :B型
スポンサーリンク

◆家系図・家族構成

柴田理恵さんは、富山県で父親、母親、本人の3人家族として育った一人っ子です。

父親は鉄道会社に勤務していたことが知られていますが、名前や生年月日などの詳しい情報は公表されていません。

母親は柴田須美子(しばた・すみこ)さん。

小学校の教員として長年働き、退職後も茶道や謡などを地域の人々に教えていました。

柴田さん自身は1987年、大学時代から親交のあった舞台関係者の染谷信幸(そめや・のぶゆき)さんと結婚。

信幸さんはWAHAHA本舗で舞台監督を務めた人物です。

夫婦の間に子供はいません。

◆母・須美子さんは小学校の先生

柴田理恵さんの母・須美子さんは、長年、小学校の教員を務めました。

17歳で教員になり、38年近く教師として働いたとされています。

退職後も地域とのつながりは途切れませんでした。

お茶を教えたり、謡を教えたり、地域の婦人会の活動に参加したりと、90歳ごろまで人に教える生活を続けていたそうです。

母のお別れ会には、大勢の教え子が訪れたことを明かしています。

しかも、その教え子たちは母・須美子さんについて、

先生には廊下に立たされて怖かった

子供のころから使い走りをさせられた

など、懐かしい思い出を語ったそうです。

柴田さんは、

私が知ってるお母さんと、外の顔のお母さんはこんなに違うんだ

と感じたと振り返っています。

家では母親、学校では厳しい先生。

そんな二つの顔を持つ須美子さんは、多くの子供たちの記憶に残る先生だったのでしょう。

◆東京へ出る娘に「帰ってこいよ」

柴田さんは富山県立八尾高等学校を卒業後、明治大学へ進学するため東京へ出ました。

当時、両親には

国語の先生になるために東京の大学へ行く

と説明していたとされます。

ところが、柴田さんが本当に進んだのは演劇の道でした。

大学では演劇研究部に所属。

その後、劇団東京ヴォードヴィルショーを経て、1984年には久本雅美(ひさもと・まさみ)さんらとWAHAHA本舗を立ち上げます。

母・須美子さんにとって、娘が演劇の世界へ進むことは、決して簡単に受け入れられるものではなかったようです。

柴田さんは後年、大学進学のため東京へ出るとき、母と一緒にカラオケへ行き、母から松村和子さんの「帰ってこいよ」を歌われたことを明かしています。

それでも、WAHAHA本舗が軌道に乗り、柴田さんが芸能界で生きていけるようになると、母は娘の仕事を認めるようになりました。

母は、

自分を必要としてくれている人に、迷惑をかけちゃいけない

という考えを持っていたそうです。

厳しく、そして深い愛情を持った母親でした。

◆夫はWAHAHA本舗の舞台監督

柴田理恵さんは1987年、28歳のときに結婚しています。

夫は大学時代の同級生で、WAHAHA本舗の舞台監督を務めていた染谷信幸(そめや・のぶゆき)さんです。

二人は同じ演劇の世界で活動していたこともあり、結婚後も柴田さんの芸能活動を舞台裏から支えてきました。

結婚式は、劇場に観客を入れた「公開結婚式」だったとも伝えられています。

表舞台でスポットライトを浴びる柴田さんと、その舞台を裏側から支える信幸さん。

演劇を通じて出会った二人らしい夫婦の形だったのでしょう。

◆子供はいない

柴田理恵さんと信幸さんの間に、子供はいません。

夫婦は長年、二人で生活を続けています。

柴田さんにとって「子供」という存在はいませんでしたが、その代わりのように家族の一員として大切にしていたのが、愛犬の晴太郎(はるたろう)でした。

柴田さんはロケ先で後ろ脚に障害のある子犬を見つけ、引き取り手が見つからなかったことから自ら引き取ります。

その犬が晴太郎でした。

晴太郎は柴田さんにとって、単なるペットではありませんでした。

子供のように大切な存在として、一緒に暮らした家族だったのです。

◆母の突然の病気

柴田さんと母・須美子さんの関係を大きく変えた出来事が、2017年に起きました。

当時88歳だった須美子さんが突然体調を崩し、腎盂炎で入院したのです。

一時は敗血症になるほど症状が悪化。

それまで「要支援1」だった母は、入院後の認定で「要介護4」となりました。

東京で仕事を続ける柴田さんにとって、富山で一人暮らしを続ける母をどう支えるのかは、大きな問題でした。

そして柴田さんは、母を東京へ呼び寄せるのではなく、遠距離介護という道を選びました。

実は、父親が2016年に亡くなった際にも、柴田さんは母に、

東京で一緒に暮らさない?

と提案しています。

しかし母の答えは、

あんたの人生と私の人生は違う。私の人生は富山にある。あんたは東京で仕事を一生懸命しなさい

というものでした。

富山には、長年暮らしてきた家があり、友人や親戚、教え子たちがいます。

東京へ移れば、娘と暮らせても、それまで築いてきた人間関係を失ってしまう。

母の「富山で生きたい」という意思を尊重し、柴田さんは東京から富山へ通うことを決めました。

◆「お母さん、何がしたい?」

遠距離介護が始まってから、柴田さんは親戚、ヘルパー、ケアマネジャー、そして地域の人々と連携して母を支えました。

母がリハビリに励むときも、ただ「頑張って」と言うのではありません。

あるとき柴田さんが、

お母さん、何がしたい?

と尋ねました。

すると母の答えは、

酒飲みたい

でした。

柴田さんは、

じゃあ、お母さん、酒飲むために頑張ろう

と、母の目の前に目標を置きました。

すると、母はそこから猛烈な勢いでリハビリに取り組み、身体の状態を回復させていったのです。

柴田さんは後に、

目の前にやりたいことのニンジンをぶら下げると、一生懸命やる人

と、母のことを笑顔で振り返っています。

「生きるために頑張る」のではなく、「酒を飲むために頑張る」。

なんとも須美子さんらしい目標です。

そして、その目標を一緒になって笑いながら支えたのが娘の理恵さんでした。

◆エピローグ

2025年1月31日——。

柴田理恵さんの母・須美子さんは、95歳で亡くなりました。

母は、最後まで「自分の人生」を生きました。

富山を離れたくない。

自分の家で暮らしたい。

酒を飲みたい。

そんな一つ一つの願いを、娘は否定せずに受け止めました。

一緒に暮らすことだけが親孝行ではない。

いつもそばにいることだけが家族ではない。

東京と富山、約300キロ離れた場所で暮らしながら、柴田さんと母・須美子さんは7年間、互いの人生を尊重しながら親子であり続けたのです。

2025年9月、柴田さんは須美子さんが生前着ていた着物を身につけて「徹子の部屋」に出演し、

元気なときよりも、ちゃんと親子らしい会話ができたかな

と介護生活を振り返りました。

柴田理恵さんは今も、そんな母との思い出を胸に、舞台とテレビで笑顔を届け続けています。

母が教えてくれた「自分の人生を生きる」という言葉を、今度は娘が受け継いでいくのでしょう。

◇出典

  1. テレビ東京「ソロモン流」 2014年6月22日 柴田理恵さん特集。夫・信幸さん、母・須美子さんなどについて紹介。
  2. スポニチアネックス 2025年2月28日 「柴田理恵の母、須美子さんが死去 95歳 所属事務所が発表」
  3. 日刊スポーツ 2025年9月17日 「柴田理恵、亡くなった母のお別れ会で『謝りっぱなし』」
  4. 日刊スポーツ 2025年9月17日 「柴田理恵、亡くなった母は遠距離介護 当時を回顧し『ちゃんと親子らしい会話ができた』」
  5. 婦人公論.jp 2023年11月28日 「柴田理恵『富山で一人暮らしをする94歳母の遠距離介護から学んだ人生の終い方』」
  6. 朝日新聞・相続会議 2023年12月13日 「『自分の親は介護するな』柴田理恵さんが遠距離介護で学んだ抱え込まない介護」
  7. 文春オンライン 2024年1月3日 「母が88歳で緊急入院→要介護4認定→往復6時間の『遠距離介護』」
  8. ORICON NEWS 柴田理恵プロフィール
  9. MANTANWEB 2025年9月17日 「柴田理恵:95歳で亡くなった母親は最期まで目標を持っていた」
  10. EPAD作品データベース WAHAHA本舗公演資料

コメント

TOPページ(新着記事、人気記事、人気カテゴリー)

タイトルとURLをコピーしました