柔道界のレジェンド、山下泰裕さん。

座右の銘は夢への挑戦です!
今回は、そんな山下さんを取り巻く『家族』の物語です。
◆家族構成・家系図
山下泰裕さんの実家の家族構成は、父親、母親、本人、弟の4人家族です。
自身は1986年に結婚し、妻との間に3人の子供がいます。

◆実家・生い立ち
山下泰裕さんは、熊本県矢部(やべ)町(現・山都町)の出身。

矢部町といえば通潤(つうじゅん)橋が有名ですね
山下少年は、地元の浜町小学校に通いますが、1年生なのに6年生の服がピッタリの体格。[2]
大きな身体を持て余して小学校で暴れ、みんなに迷惑を掛けることもありました。
実家は魚屋さんで両親は商売に忙しく、子供のしつけにまで手が回りません。
このままでは将来息子は人から後ろ指を指されるようになるかもしれない、何とかせにゃならん
と心配して考えたのが、柔道をやらせることでした。
柔道着の帯をしめてルールに従えば、あとはどんなに暴れ回っても、だれからもなんにもいわれることはない…
山下少年は、自分のエネルギーを思う存分発散することができる柔道に、すぐに夢中になりました。
小学校6年生で、熊本県の柔道大会で優勝した山下さんは、柔道の名門・熊本市立藤園中学校に入学。
全国中学校柔道大会の団体戦には2年・3年で出場して、ともにオール一本勝ちします。
藤園中学の全国優勝に大きく貢献し、「怪童出現」と一躍注目されました。
中学2年生の時には「将来の夢」という作文を書き、

オリンピックに出場して、メインポールに日の丸を掲げながら『君が代』を聞きたい。そして柔道の素晴らしさを世界の人々に広げられるような仕事をしたい
と書いていました。
高校は、東京の強豪校から多くのスカウトを受ける中、

東京へ出るのは大学からでいい
と考えていた山下さんは、中学時代の恩師・白石先生が新たに柔道部監督を務めることになった九州学院高等学校に進学。
1年のインターハイで、史上初の1年生優勝を遂げるも、少しずつ成績が下降していきます。
もはや熊本には練習相手がおらず、実力が伸び悩んでいるのを実感していた山下さんは、祖父の奨めなどもあり、2年生の時に神奈川県の東海大相模高等学校に転校しました。
転校後の金鷲旗では11戦全勝して東海大相模の初優勝に貢献。
インターハイ団体戦では8戦全勝して、またも東海大相模を初優勝に導き、個人戦重量級でも6戦全勝して2年ぶり2度目の優勝を果たしています。
◆祖父:泰蔵さん
山下泰裕さんの祖父の名前は、泰蔵さん。
お祖父さんは午前3時頃に魚市場に行って魚を積んで帰り、午後3時には初孫の山下さんを連れて銭湯の一番風呂に入るのが日課でした。
お祖父さんが刺し身で晩酌をする時
新鮮な魚のたんぱく質が赤子に悪かろうはずがない
と思い立ち、山下さんに魚を噛んで与えたらおいしそうに食べたのだとか。
それからはタイやフグのあらを1時間以上煮込み、そのスープも飲ませるようになったそうです。

これで骨などが丈夫になったのは間違いありません
山下さんの強靭な肉体は、祖父の愛情スープが礎となったのでした。
また、山下さんの祖父はよく
泰裕、草木に劣るなよ
と言っていました。
草木でも手をかけると、それにこたえて成長する。人間も常に感謝の気持ちを持て
という意味合いです。
山下さんの柔道人生は、多くの人達の支えの上に成り立ってきました。
しかし、その人達に感謝の気持ちが伝わらなければ、次の支援は受けられなかったでしょう。
人々に支えられ続けて、柔道で偉業を成し遂げた山下さんの礎には、祖父の教えがあったのでした。
◆父親:六男さん
山下泰裕さんの父親の名前は、山下六男(やました・むつお)さん。[3]
父・六男さんは無口で粘り強い人でした。
子供のころ、山下少年をしかるのはもっぱら母親で、父はうるさいことをあまり言いませんでした。
しかし少年時代、山下さんが一番怖かったのは、気性の激しい祖父でもなく、口うるさい母親でもなく、寡黙な父親でした。
無言の教育者のような父は、
柔道をとったら何も残らんような人間になるな
と話していました。
そのため山下少年は、柔道に没頭しながらも勉強をおろそかにしなかったそうです。
◆母親:倭子さん
山下泰裕さんの母親の名前は、倭子(しずこ)さん。[6]

資料によっては妙子さんとされています [4]
母・倭子さんは、無口な父親とは対照的に、勝ち気で男勝りの性格でした。
ある日の学校帰り、友達数人でカバン持ちジャンケンをしながら帰っていました。
その日、じゃんけんに負けたのは、小児麻痺を患った友達。
その子が、みんなのかばんを抱えて歩いているところを、母親がたまたま通りがかります。
烈火のごとく怒った母・倭子さん。
じゃんけんに勝っていることを説明する息子に、母は諭します。
確かにお前はジャンケンに勝ったかもしれんけど、何で俺が代わって持ってやるって言えんとね…それが悲しかし、情けなか
山下さんに色んなことを教えてくれた倭子さんは、2020年3月28日に亡くなりました。
88歳の人生でした。
◆弟:真吾さん
あまり知られていませんが、山下泰裕さんには弟がいます。
名前は山下真吾さんです。[7]
弟の真吾さんは元高校球児で、群馬県立前橋高等学校の野球部で活躍。
東海大甲府高校戦では右中間スタンドにホームランを放ったという記事が確認できます。
◆妻:みどりさん
山下泰裕さんは、1986年に結婚しています。
お相手は旧名・小野みどりさん。
もともと妻・みどりさんは、銀座和光の店員さんでした。
和光へ買い物に来た山下さんに一目ぼれしたみどりさん。
なんと、顧客リストから山下さんの住所を調べ、写真と手紙を送るなど積極的にアプローチし、交際が始まったのだとか。

今だったら個人情報流出事件ですね
当時も、
『顧客リスト』を私用に使うとは何事だ
という非難はあったそうですが、個人情報保護法ができたのは 2003年と、ずっと後のこと。
当時は個人情報に対する認識が、おおらかだったのです。
◆3人の子供
山下泰裕さんには、息子さんが2人と、娘さんが1人います。
次男さんは自閉症であることを告白している山下さん。[5]
子供のころから体格や運動神経に恵まれた山下さんは、オリンピックで金メダルをとり、国民栄誉賞を受賞しました。
しかし結果として、山下さんは、強者の立場からしかものが見られない人間になっていました。
その後、大学の監督を辞め、少し余裕ができて、次男と向き合ったことで、痛感したことがあります。
それは、
ハンディキャップを背負い、努力してもなかなか結果を出せない人がいる
という当たり前のことでした。
次男のお陰で、当たり前のことに気付くことができた山下さん。
だから山下さんは、次男にとても感謝しているのだそうです。
◆エピローグ
2023年10月29日。
山下泰裕さんは箱根の露天風呂から2メートル近く転落し、首の骨を折る重傷を負いました。

あそこで死んでもおかしくなかった。川向こうで祖父か誰かが呼んでいたような気もする
と山下さんは振り返ります。
でも死ななかったーー。
妻や娘さんは、
生かされたのは何かやるべきことがあるからだ。役割を果たすためにも社会復帰を目指そう
と懸命に語りかけてくれました。
山下さんはその後、首から下が動かない状態ながらも、東海大学での講義や講演会、メディア対応をこなすようになりました。

私が生かされた意味を考え、弱者や障害者が暮らしやすい社会作りを目指す
これからも家族の支えを受けながら、山下さんの挑戦は続いていきます。
◇脚注
- 上智大学ホームページ 2013年5月9日 上智大学創立100周年記念事業・スポーツ講演会(山下泰裕氏)開催報告
- 日本食糧新聞 1999年3月10日 だから素敵! あの人のヘルシートーク:山下・全日本柔道連盟強化ヘッドコーチ
- MOVIE WALKER PRESS 2021年2月6日確認 山下少年物語
- 毎日新聞 2020年3月31日 山下妙子さん 88歳=山下泰裕・日本オリンピック委員会会長、全日本柔道連盟会長の母
- 週刊朝日 2012年7月14日 柔道家・山下泰裕さん 自閉症の次男に「感謝している」と語る
- 読売新聞 2026年7月2日 [時代の証言者]柔の道を生きる 山下泰裕<2>祖父のあら汁「骨強化」
- 前橋新聞mebuku 2023年4月10日 【昭和高校球児物語-前高 完全試合のキセキ-▶︎38】高校2年秋-6




コメント