◆父親の職業は?
桂文枝さんのお父さんの名前は、河村清三さん。
父・清三さんは、運動が苦手でしたが、読み書きそろばんは得意で、大倉喜八郎(おおくら・きはちろう)が創立した名門の大阪大倉商業学校へと進学。
学校を卒業した清三さんは、野村銀行(現在は合併してりそな銀行)へと就職しました。
ちなみに現在の野村證券は、野村銀行の証券部門が独立して出来た会社です
清三さんは中小企業向けの融資を担当していましたが、落語などが大好きで、職場でも落語を披露して楽しませる一面がありました。
文枝さんのルーツは、この辺にあるのですね(゚д゚)!
父・清三さんは結婚し、文枝さんが生まれますが、同じ頃“肺侵潤(はいしんじゅん)”という病に侵されます。
半年ほど療養し、何とか病状が回復しましたが、追い討ちをかけるように“召集令状”が届きました。
軍隊の生活は、清三さんには過酷すぎて、入隊から1ヶ月後には重い結核となります。
清三さんはとうとう、戦地に赴くこともなく、陸軍病院で亡くなりました。
◆母親のエピソード
桂文枝さんのお母さんの名前は、治子さん。
母・治子さんは幼い頃に両親をなくし、親戚の家で育てられた辛抱強い人でした。
父・清三さんとはお見合いで知り合いましたが、結婚が決まると2人はデートを繰り返します。
お酒の飲めない甘党の清三さんは、治子さんをよく甘味処に連れて行きました。
昭和16年11月25日に2人は結婚。
治子さんは、清三さんの両親にも献身的に接し、その様子は清三さんのお父さんの日記にも綴られています。
清三さんが亡くなると、文枝さんを実家に渡して、自身は再婚するように勧められますが、治子さんはこれを拒否。
女手一つで子供を育てるのは大変だったと思いますが、文枝さんを関西大学まで進学させました。
しかし、大学で落語と出会った文枝さんは、4年生の時に、
プロの落語家になりたい!
と言い出します。
治子さんは大反対しますが、最終的には認めてくれ、文枝さんが成功を収めると、大喜びしてくれたそうです。
治子さんについては、こんなエピソードがあります。
清三さんが病に侵され、陸軍病院に入院していた頃のある日、治子さんに、
ぜんざいが食べたい…
と伝えた事がありました。
戦争中で小豆は入手困難でしたが、家族総出で必死になってかき集め、何とかぜんざいを作ります。
それを水筒の中に隠して病院内に持ち込み、清三さんに食べさせてあげました。
その味はきっと、2人がデートした時に食べた、思い出の味だったことでしょう。
◆まとめ
平成19年、秋の園遊会に招かれた桂文枝さんは、陛下に面会する夢が叶います。
それは、かつて母・治子さんが教えた言葉が、現実のものとなった瞬間でもありました。
陛下にお会いしても恥ずかしくない人になりなさい…
これからも「笑いの文化」をリードし、日本をもっと元気にして欲しいと思います!
◇編集後記
2021年1月、桂文枝さんの奥さまとお母さまが、相次いで亡くなりました。
文枝師匠は、
1月24日 妻、眞由美が あくる日の1月25日 母が追うように逝去いたしました。人生の中で2日続けて死亡届を書くなんて思ってもいませんでした
と、最愛の2人の死を報告しています。
ご冥福をお祈り申し上げます。
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