【國村隼】の家族~父はパラオからの引揚者…その記憶は父から息子へ、そして世代を超えて娘婿へ

映画やドラマで、圧倒的な存在感を放つ俳優、國村隼さん。

強面の役から、どこか哀愁を漂わせる父親役まで、幅広い人物を演じてきました。

しかし、その人生をたどってみると、華やかな芸能界とは対照的に、戦争によって故郷を追われた一家の歴史と、貧しい少年時代を乗り越えてきた一人の青年の姿が浮かび上がります。

今回は、そんな國村さんを取り巻く『家族』の物語です。

名  前:國村隼(くにむら・じゅん)
本  名:米村喜洋(よねむら・よしひろ)
生年月日:1955年〈昭和30年〉11月16日
血液型 :A型
身  長:170cm
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◆家族構成・家系図

國村隼さんの実家の家族構成は、父親、母親、本人です。

自身の家族の詳細は分かりませんが、娘がいることが明かされています。

◆実家・生い立ち

國村隼さんは、1955年11月16日、熊本県八代市で生まれました。

本名は米村喜洋

父方のルーツも、熊本県八代市にあります。

2026年に放送されたNHKの「ファミリーヒストリー」では、國村さんの家系をさかのぼり、戸籍上もっとも古い先祖として5代前の米村太右衛門の名前が確認されています。

米村家は代々、寺や神社の維持管理に携わってきた家系でした。

そして、國村さんの曽祖父にあたる米村嘉次郎さんは宮大工。

その次男として生まれたのが、國村さんの祖父、米村勝蔵さんでした。

勝蔵さんも父の跡を継いで宮大工となり、昭和3年ごろ、家族とともにサイパンへ渡ります。

その後、一家はパラオへ移住。

そこで南洋神社の建設にも携わり、技術者として働いていました。

ところが、平穏な暮らしを戦争が一変させます。

◆祖父はパラオで戦死

太平洋戦争が激しくなると、パラオに暮らしていた女性や子供たちには、日本本土へ引き揚げるよう要請が出されました。

当時まだ少年だった國村さんの父・米村洋さんも帰国することとなります。

1944年7月25日、一家は「天応丸」に乗り込み、アメリカ軍による機銃掃射を受けながらも命からがらパラオを離れ、神戸へたどり着きました。

しかし、勝蔵さんはパラオに残りました。

臨時招集を受け、防衛任務に就いていたところ、機銃掃射で右顔面を骨折。

十分な治療を受けられないまま感染症にかかり、1945年2月、わずか37歳で亡くなりました。

こうして、國村さんの父・洋さんは、幼い頃に父親を失うことになります。

その後の人生も、決して平坦ではありませんでした。

◆父・米村洋さん

國村隼さんの父親は、米村洋(よねむら・ひろし)さん。

1932年〈昭和7年〉、パラオで生まれました。

父・勝蔵さんを戦争で失った後、熊本へ引き揚げた洋さんは、八代市立八千把小学校に編入。

パラオ育ちで標準語を話していたため、周囲から浮いてしまったといいます。

その後、熊本県立八代高等学校へ進学。

成績優秀で、将来は教師になることを夢見ていました。

ところが、兄・勝嘉さんがレッドパージによって職を失い、行方が分からなくなります。

洋さんは教師への夢を捨てきれないまま、小学校の助教諭として働き、一家を支えました。

そして、この八代高校時代に出会ったのが、後に妻となる女性でした。

◆母・米村リツ子さん

國村隼さんの母親は、米村リツ子(よねむら・りつこ)さんです。

1933年〈昭和8年〉生まれとなります。

リツ子さんの実家である井本家も、熊本県八代市にルーツがあります。

母方の祖父・井本茂喜さんは、苦しい家計を立て直すために養蚕業を始め、成功を収めました。

そのためリツ子さんは、比較的にぎやかな家庭で伸び伸びと育ったそうです。

そして八代高校で出会ったのが、パラオから引き揚げてきた洋さんでした。

明るく快活だったリツ子さんは、苦労の多い人生を歩んできた洋さんに好意を抱くようになります。

しかし、洋さんと結婚することは、単に恋人と家庭を築くという意味ではありませんでした。

病気で寝たきりになった洋さんの母・スナさんの看病や、妹や弟の面倒を見ることも意味していたのです。

それでもリツ子さんは家族の反対を押し切り、1954年〈昭和29年〉、洋さんと結婚しました。

二人は共働きで懸命に家庭を支えます。

そして翌1955年、二人の間に生まれたのが、後の國村隼さんでした。

◆一人っ子で「ひとりぼっち」

國村さんの幼少期は、決して裕福ではありませんでした。

父・洋さんは外国車販売の営業職へ転じ、母・リツ子さんもタクシー会社の事務員などとして働きました。

この年代に珍しく一人っ子だった國村さんは、両親が働いている間、一人で過ごすことが多かったといいます。

その少年時代を象徴するのが、クマのぬいぐるみでした。

國村さんは幼い頃、そのぬいぐるみに強い愛着を持っていたそうです。

ひとりで過ごす時間が多かった少年にとって、ぬいぐるみは単なる玩具ではなく、いつもそばにいる存在だったのかもしれません。

2026年の「ファミリーヒストリー」では、このクマのぬいぐるみや、少年時代の「酢飯」の思い出にも光が当てられました。

そんな少年が、後に日本を代表する俳優の一人になるのです。

◆父から受け継いだ「車」と俳優への道

少年時代の國村さんは、父・洋さんが扱っていた外国車に乗せてもらうことがありました。

車について説明してくれる父の姿を見て、國村さん自身も車が好きになり、将来はエンジニアになろうと考えるようになります。

大阪府立工業高等専門学校へ進学したのも、その夢があったからでした。

しかし、学校では進級できず、20歳で中退。

人生の進路は、ここで大きく変わります。

友人の岡育生さんに勧められ、大阪放送劇団のオーディションを受けると、100人以上の応募者の中から合格。

1976年、21歳で初舞台を踏み、俳優の道へ進みました。

エンジニアになるはずだった少年が、まったく別の道を歩き始めた瞬間でした。

◆娘の夫は大阪大学の研究者

そして2026年、國村さんの家族に新たな一面が明らかになりました。

NHKの「ファミリーヒストリー」で、國村さんには娘がいることが紹介されたのです。

そして娘さんの夫は、ニコラス・ランブレクト(Nicholas Lambrecht)さん。

大阪大学大学院人文学研究科の准教授で、日本文学、比較文学、国際日本研究などを専門としています。

◆エピローグ

2025年4月、國村隼さんの父・洋さんは93歳で亡くなりました。

晩年の洋さんは、パラオでの出来事について語ることもあったそうです。

興味深いのは、娘婿のランブレクトさんが洋さんから、パラオでの戦争体験を聞いていたことです。

1944年、パラオから日本へ引き揚げる際に一家が経験した機銃掃射。

その記憶は、父から息子へ、そして世代を超えて娘婿へと伝えられていました。

國村隼さんが歩いてきた道は、一本の人生であると同時に、戦争と平和、親子の絆、そして次の世代へ受け継がれていく家族の物語でもあるのです。

◇出典

  1. NHK「ファミリーヒストリー 國村隼~パラオの悲劇 苦難の道を歩んだ一家~」
  2. MANTANWEB「國村隼:貧しい少年時代、『クマのぬいぐるみ』の思い出とは? “パラオの悲劇”で苦難の道を歩んだ一家」
  3. 映画.com「國村隼 プロフィール・作品情報」
  4. KINENOTE「國村隼 略歴・フィルモグラフィー」
  5. 大阪大学グローバル日本学教育研究拠点「NHKのドキュメンタリー番組『ファミリーヒストリー』に、本拠点運営委員のニコラス・ランブレクト先生が登場しました」
  6. 大阪大学大学院人文学研究科「教員一覧」
  7. 国際日本文化研究センター「NIMOU Japanese Studies/Lambrecht Nicholas Mahood」

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