2016年5月3日、元・零戦パイロットの原田要さんが、多臓器不全のため、99歳で亡くなりました。
今回は、小説「永遠の0」を地で行く、原田さんの人生を支えた『家族』にスポットを当て、ご紹介します。
◆父親
原田要さんは当初、パイロットでなく整備兵を目指していました。
当時、パイロットになるには父親の承諾書が必要で、お父さんに承諾を頼むと、こう言って断られたからです。
「農家の長男にそんな危ないものに乗せられるわけないだろ!」
それでも原田さんは諦めきれなくて、隣村の海軍中佐に「父親を説得してください!」とお願いしました。
海軍中佐の説得にもお父さんは応じず、やむなく原田さんは、整備兵を要請する「航空兵器術学校」へと進みます。
しかし、「空を飛びたい」という夢を捨てきれない原田さんは、パイロットの試験を受けることを決断しました。
父親の「承諾書」については、自分で勝手に書いて、ハンコを押して提出したのだそうです(^^;)
◆母親
原田要さんは、1942年4月のセイロン沖海戦で、初めての空戦を経験します。
敵のホーカーハリケーン戦闘機を5機撃墜し、遅れて集合地点へ戻ると、味方は既に帰艦した後でした。
艦隊が見つからず、燃料がなくなってしまい、「敵に突っ込んで死んでしまおうか」とも考えます。
すると、不思議なことに水平線の雲が、母親の姿に見えました。
目・鼻までついて、「おいでおいで」と呼んでくれた雲の下には、味方の艦隊が並び、原田さんは九死に一生を得ます。
その後も、地獄のような絶望的な局面から、何度も奇跡的に生還した原田さんは、その都度母親の姿を見たそうです。
これらの経験から、戦争を止めることが出来るのは「母親」だけだと、原田さんは戦後に繰り返し語り続けて来ました。
◆零戦乗りを支えた妻
原田要さんのお嫁さんの名前は、原田精さん。
妻・精さんは、1941年の元旦、17歳の時に、親が決めた縁談で原田さんに嫁ぎました。
戦中は、明日をも知れぬ「零戦パイロット」の妻として、原田さんを支えます。
戦後は一転、周囲から「戦犯」呼ばわりをされ、失業して職を転々とする原田さんと一緒に、激動の昭和を生きてきました。
1965年、夫婦は長野県で小さな幼稚園(現・ひかり園幼稚園)を設立し、原田さんは後に園長先生を務めます。
妻・精さんは毎年、冬になると、次の春に入園してくる子供たちのために全員の分の草鞋(ワラジ)を、心をこめて編んでいました。
この頃の親御さんのなかには、こんなものいらないから保育料を安くしろって言う人もいるんですよ。もう、嫌になっちゃって
時代の変化に、戸惑いを漏らす場面もあったと言います。
今度生まれ変わったら、もっと楽な人と一緒になりたいわ」
・・・こう言いながらも、ご主人のことを思い続け、2010年11月、87歳で亡くなりました。
◆子供は幼稚園の園長を承継
原田要さん・精さん夫妻は、子宝に恵まれました。
第1子は長男。理由は分かりませんが、先に亡くなられています。
第2子は長女。
第3子は次男。幼い時にいろりに落ちて、大やけどを負っています。
現在の「ひかり幼稚園」の園長先生は、原田誠龍さんとおっしゃいますが、次男さんでしょうか?
ほかに、三男・孝成(たかなり)さんがいて、原田さんの喪主は孝成さんがお務めになっています。
◆まとめ~永遠の0を地で行く~
これまで見てきた通り、「永遠の0」を地で行く、原田要さんの人生の陰には、いつでも温かく支えてくれた『家族』の姿がありました。
原田さんが語り継いでくれた、戦争の悲惨さと、日本人としての誇りを、私たちは後世に伝えていかなければならないでしょう。
ご冥福をお祈り申し上げます。
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