昭和を駆け抜け、平成に散った伝説の俳優、高倉健さん。
今回は、生前の健さんとともに時代を生きた『家族』の物語です。
◆実家近くに立つ記念碑
高倉健さんは、福岡県中間(なかま)市の出身。
実家は裕福で、当時の子供たちは裸足で登校する中、健さんだけは革靴に革のランドセルを背負っていたそうです。
意外にも幼少期は身体が弱く、小学生のころ、家で1年間の療養をしたこともありました。
旧制東筑(とうちく)中学、福岡県立東筑高等学校を卒業。
貿易商を目指して明治大学商学部へ進学しており、以降は実家を離れて東京で暮らしました。
2017年11月、実家の菩提寺である正覚寺に、健さんの記念碑が建てられました。
記念碑には、生前の健さんの座右の銘である「寒青(かんせい)」の二文字が刻まれています。
◆海軍出身の父
高倉健さんの父親の名前は、小田敏郎さん。
父・敏郎さんは旧日本海軍の出身で、宝珠山炭坑の労務係として炭坑労働者を束ねる仕事をしていました。[2]
父・敏郎さんの訃報が届いた時、健さんは1976年公開の映画『君よ憤怒の河を渉れ』の撮影中でした。
急いで飛行機で帰ろうとしますが、全日空のストライキの影響で飛行機が飛びません。
やむなく健さんは、急行電車で7時間かけて京都から九州に向かい、神社で行われた葬儀に間に合ったのでした。[3]
◆元教員の母
高倉健さんの母親の名前は、タカノさん。
母・タカノさんは元々、教員でした。
母・タカノさんが亡くなったとき、健さんは1989年公開の映画『あ・うん』の撮影中でした。
最愛の母の葬儀に出れず、健さんは歯を食いしばって撮影を続けたそうです。
2013年、健さんは文化勲章を受章します。
このとき、母・タカノさんの口癖「辛坊ばい」を会見で語り、母親への深い思いを表しています。
◆4人兄弟の3番目
高倉健さんは、4人兄弟の第3子に当たります。
- 長男・昭二さん
- 長女・黎子さん
- 次男・剛一さん(高倉健さん)
- 次女・敏子さん
◆妻・江利チエミ
①江利チエミとの馴れ初め
高倉健さんは、1959年に結婚しています。
お相手は歌手の江利チエミ(えり・ちえみ)さん。
1937年1月11日生まれなので、健さんより6歳年下になります。
2人の馴れ初めは、1956年公開の映画『恐怖の空中殺人』で共演したこと。[4]
当時を知る映画関係者によると、江利さんが健さんに惚れ込んでしまい、後見人的存在の清川虹子(きよかわ・にじこ)さんに相談したのだそうです。
清川さんは健さんに、
チエミちゃんのこと、何とかしてあげなさいよ
と話し、交際、結婚へと発展していきました。
②江利チエミと離婚
押し切られるような形で結婚した高倉健さんでしたが、江利さんのことをとても愛していました。
しかし2人は、1971年9月3日に離婚。
離婚原因は、江利さんの付き人をしていた「異父姉」の存在でした。
異父姉は、横領事件を起こしたり、2人を攻撃するデマ話を流したりするなど、夫婦関係をこじらせる行為を繰り返したのです。
極め付きは、数億円の借金を作り、江利さんの実家を抵当に入れたこと。
夫に迷惑をかけてはならない
と、離婚を申し出たのです。
◆鎌倉に眠る子
高倉健さんと江利チエミさんは、子供を授かったことがあります。
しかし江利さんは重度の妊娠中毒症を発症し、中絶を余儀なくされました。
後に建さんは、鎌倉霊園の墓地に、水子を祀る地蔵を置いています。
◆17年寄り添った養女
高倉健さんには養女がいて、名前は小田貴月(おだ・たか)さん。
1964年1月13日生まれなので、健さんより33歳年下になります。
養女といっても17年もの間、健さんの傍にいて身の回りの世話をしてきた女性です。
ただ、平時はいいですが、健さんが入院するなどの非常時になると、
戸籍上の関係がないと、(貴月さんが)病室に入っていられなくなる…
という事になります。
貴月さんを配偶者か養女かにする必要を生じ、健さんがくだした決断が「養女」でした。

◆まとめ
これまで見てきた通り、高倉健さんの活躍の陰には、温かく支えてくれた『家族』の姿がありました。
これからも家族の応援を胸に、健さんの挑戦は続いていきます(^o^)丿
◇脚注
- デイリー新潮 2020年11月10日 7回忌を迎えた「高倉健」 甥が初めて明かす「親しかった著名人」「やりたかった映画」
- Wikipedia 2021年1月13日確認 伊藤伝右衛門のページ
- アサ芸プラス 2013年1月31日 高倉健の素顔とは
- アサ芸プラス 2014年12月2日 追悼・高倉健 不器用すぎた女性関係(1)唯一結婚した江利チエミとの生活
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