ブンデスリーガ「アイントラハト・フランクフルト」に所属し、サッカー日本代表としても活躍する、長谷部誠(はせべまこと)選手。
今回は、そんな長谷部選手を育み、支えてくれた『家族』にスポットを当て、ご紹介します。
◆実家は静岡県藤枝市
長谷部誠選手の実家は、静岡県藤枝市。
長谷部家は、藤枝で10代以上続いている旧家であり、丸の中に三角が3つ並んだような家紋を持つそうです。
長谷部選手はこの地で3歳のときにサッカーを始め、藤枝市立青島東小学校のスポーツ少年団で基礎を学びました。
その後、藤枝市立青島中学校サッカー部を経て、高校は静岡県の名門「藤枝東高校」で活躍しています。
◆父親の年齢は?
長谷部誠選手のお父さんの名前は、長谷部敏之さん。
1957年頃の生まれになります。
長谷部選手がサッカーを始めたのは、父・敏之さんの影響。
敏之さんは、1980年代のブラジル代表の「黄金のカルテット」に魅了され、息子にW杯への憧れを託したのでした。
また、父・敏之さんは厳格で、長谷部選手にとってはとても怖い存在でした。
9歳のときには、就寝中にお父さんにたたき起こされ、サッカー史に残る「ドーハの悲劇」を体感します。
お父さんは、小学校のときはサッカー部の手伝いにも来ていて、ピッチでも厳しい指導を受けました。
しかし、そうした指導が実を結び、高校卒業時には浦和レッズからオファーを受けることに。
プロに行くか、大学に進むか。
プロで通用するのはほんの一握り。無名の選手なんか、すぐに放り出される。
そう言って、父・敏之さんは大反対します。
◆祖父の名前は?
そんな時、プロ入りを後押ししてくれたのは、長谷部誠選手の祖父・松太郎さんでした。
マコト、人生は一度しかないんだよ。男なら思いきって挑戦するべきではないのか?
長谷部選手は、周囲の反対を振り切り、浦和レッズへの入団を決めます。
家族を安心させるためか、
プロでも活躍する自分をみてほしい…
と、二軍の公式戦に家族を招待しました。
しかしこの試合、ベンチ入りした15人中、出場できなかったのは長谷部選手ただ一人。
長谷部選手は試合後、練習場に一人残り、泣きながらボールを蹴ったそうです。
結局、プロ1年目の2002年は途中出場の1試合だけに終わりました。
年末に実家に帰ると、祖父・松太郎さんは病院のベッドに。
浦和に戻る前日には、
おれも(浦和に)連れていってくれよ…
と笑っていました。
それから1カ月。
祖父・松太郎さんは69歳で亡くなります。
練習を切り上げて故郷に戻った長谷部選手は、長い間、自分の部屋に閉じこもっていたそうです。
そして、この日を境に、長谷部選手のプレースタイルは一変しました。
練習で激しく体をぶつけてボールを奪い、先輩に怒声を張り上げ、指示を出すようになったのです。
こうして、「普通の若手選手の一人」だった長谷部選手は、日本を代表する選手へと成長していきました。
ちなみに、「誠」という名前をつけてくれたのは、祖父・松太郎さん。
しかし、子供のころは、自分の名前が古臭く感じ、あまり好きではありませんでした。
やがて中学生になり、高校生になり、年齢を重ねていくと、名前に込められた「想い」に気がつき始めます。
嘘をついてはいけない。
人にやさしくできる人間になりなさい。
常に誠実でいなさい。
「誠」という名前には、子供の頃から、両親やおじいさんに言われ続けてきたことのすべてが凝縮されていたのです。
いつしか長谷部選手は、自分の名前が大好きになり、常にこの名前を意識して行動するようになりました(*^_^*)
◆性格は母親ゆずり
長谷部誠選手のお母さんは、せっかちなところもあるけれど、時間にきっちりしたタイプ。
長谷部選手のまじめで几帳面な性格は、まさにお母さんゆずりといえます。
◆姉とその子供たち
長谷部誠選手には、お姉さんがいます。
お姉さんはすでに結婚しており、男女2人の子供がいますが、長谷部選手はこの2人を溺愛。
特に、姪っ子の「ひなちゃん」は、「おしゃれイズム」で共演し、その溺愛ぶりを全国放送で披露しました(#^.^#)
◆妹の職業は?
長谷部誠選手には妹もいて、名前は衣美(えみ)さん。
1986年頃の生まれで、東京都内で会社員として働いています。
長谷部選手が初めてドイツに移籍した直後には、数カ月間ドイツで同居して、長谷部選手を支えました。
妹・衣美さんは、サッカー選手として活躍する兄について、次のように語っています。
プロサッカー選手になるだけでも私たち家族の想像を超えていた。
同世代としては、生きる目標を見つけられたことがうらやましい。
自分も含めて、それがわからなくて悩む人が多いから…
妹さんも、コメントがしっかりしていますね!(^^)!
コメント
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