にかい・のぶやす【二階伸康】
1974年〈昭和49年〉1月4日生まれの政治家、自由民主党所属。
◆実家・生い立ち
二階伸康さんは、和歌山県御坊市で生まれ育ちました。
地元の御坊市立御坊小学校、御坊市立御坊中学校を卒業。
和歌山県立日高高等学校へ進み、高校ではバスケットボール部のキャプテンを務め、全国大会に出場するなどチームを率いる存在でした。
青山学院大学法学部公法学科を経て、全日本空輸(ANA)に就職し営業・国際業務に従事した後、2014年ごろ退社。
その後10年ほど、父の秘書として政治家の修行を続けています。
◆祖父:二階俊太郎/和歌山県会議員、和歌山県日高郡稲原村長、御坊造船社長
二階伸康さんの父方の祖父は、二階俊太郎(にかい・しゅんたろう)さん。[1]
1900年〈明治33年〉12月23日生まれ、1975年〈昭和50年〉10月4日に74歳で亡くなっています。
俊太郎さんは和歌山県西牟婁郡三舞村大字久木(現在の白浜町大字久木)の出身。
若き日は中央大学法科を中退し、太平洋航路船の乗組員や筏流し、農蚕業、代用教員、記者、印刷業など、多種多様な職を経験しました。
1938年〈昭和13年〉3月、和歌山県会議員に補欠当選を果たし、翌1939年には再選されました。
1940年〈昭和15年〉9月、現職の県会議員でありながら、地元・日高郡稲原村の村長に請われて就任。
1943年〈昭和18年〉4月には、当時の和歌山県知事・広瀬永造((ひろせ・えいぞう)氏の推薦で新設された御坊造船の社長に就任。
県会議員、村長、社長の三役を同時に務めるという離れ業をこなすことになりました。
戦後の1946年、初めて行われた衆議院議員選挙に推されて出馬しますが、落選。
さらに戦時中の村長職(=大政翼賛会支部長)としての責任を問われ、公職追放を受けます。
この頃の俊太郎さんは、朝刊が届くとすぐに起き上がり、真っ先に「追放解除者」の欄を確認するのが日課だったと伝えられています。
その様子には、再び公職に戻りたいという強い意志と政治への情熱がにじんでいました。
1959年〈昭和34年〉、念願かなって県会議員に復帰し、1967年〈昭和42年〉まで務め、地元の発展に尽力しました。
俊太郎さんの生涯は、まさに戦中・戦後の激動期を生き抜いた一人の政治家・実業家の物語であり、その姿は後に続く息子の俊博さん、孫・伸康さんにも深く影響を与えたことは間違いありません。
俊太郎さんの信念と覚悟は、家族を通じて三代にわたり受け継がれているのです。
◆祖母:二階菊枝/女性医師
二階伸康さんの父方の祖母は、二階菊枝さん。[1]
祖母・菊枝さんは1899年〈明治32年〉、医師・古久保良輔氏の娘として生まれました。
1923年に東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)を卒業後、東京市の日本橋病院、凌雲堂病院などに勤務。
後に和歌山県御坊市新町で開業医となりました。
女性が医師として活躍するのが珍しかった時代に、第一線で活動していた人物であり、家系としても高い教育と職業的意識が根付いていたことが伺えます。
◆父親:二階俊博/自由民主党幹事長、経済産業大臣ほか多数
二階伸康さんの父親は、二階俊博(にかい・としひろ)さん。[2]
1939年〈昭和14年〉2月17日生まれになります。

父・俊博さんは和歌山県御坊市新町の出身。
俊博さんは稲原小学校から御坊小学校へ転入し、御坊中学校、和歌山県立日高高等学校に進学。
高校3年生のときには生徒会長選挙に立候補し、圧倒的多数で勝利するというリーダーシップを発揮します。
1957年〈昭和32年〉、中央大学法学部政治学科に入学。
上京の背景には、新聞部顧問だった津本誠一郎教諭から
東京には政治家や経済人、文学者など多様な人物が集まる
と助言を受けたことや、父・俊太郎さんが同じ中央大学の卒業生であったことが挙げられます。
大学卒業後は、建設大臣を務めた遠藤三郎氏の秘書を務め、政治の現場を学びました。
遠藤氏の死後、地元・和歌山へ戻り、1975年〈昭和50年〉に県議会議員に初当選。
その後、1983年〈昭和58年〉12月18日、旧和歌山2区より自民党公認で衆議院議員選挙に出馬し、初当選を果たしました。
俊博さんは、その後も長年にわたり政界に身を置き、自由民主党幹事長、国土交通大臣などの要職を歴任しました。
厳格かつ実行力のある政治家として知られた一方で、息子である伸康さんの政界挑戦にも温かいまなざしを注いでいます。
◆母親:二階怜子
二階伸康さんの母親の名前は二階怜子(にかい・れいこ)さん。[3]
1945年〈昭和20年〉生まれで、2023年〈令和5年〉12月、77歳で逝去されました。
怜子さんは政治の表舞台に出ることは少なかったものの、夫・俊博さんを長年にわたって陰から支えました。
俊博さんとは、家同士が旧知の間柄であり、同じ小学校・中学校・高校を共に過ごした幼馴染です。
怜子さんが上京した際、俊博さんが東京を案内したことをきっかけに交際がスタートし、東京・神保町の古本屋でデートを重ね、やがて恋愛結婚に至りました。
結婚生活は東京都国立市の4畳半・風呂なしのアパートから始まりました。
当初から
私は政治の世界は嫌いだけど、いずれ(俊博氏が)政治の道に進むとは思っていた
と話していた怜子さん。
夫の政治活動を支える覚悟は持っていたものの、和歌山県議選に立候補する際は重圧から声が出なくなったとも言われています。
俊博さんからは

お前を選挙で街頭に立たせなければならなくなったら、俺は政治を辞める
と告げられたものの、怜子さんは
事務所や後援会の人たちの言うことを聞こう。主人の言うことは聞かない
と自ら決意し、地元の支援者のもとへ自発的に足を運び、絆を築いていきました。
車の運転が得意だった怜子さんは、東京-和歌山間を俊博さんと共にドライブで移動することが多く、その時間が数少ない夫婦の時間でもありました。
主人の演説が始まると、どんな時でも聞きに行った
と語る彼女は、良き妻であると同時に、俊博さんの一番のファンでもあったのです。
2004年〈平成16年〉には肺がんを患い、長年にわたり手術や抗がん剤治療を受けながら、夫を支え続けました。
亡くなる2日前には、俊博さんと半日ほど水入らずの時間を過ごすことができたと言われています。
◆長兄:二階俊樹/政治家秘書
二階伸康さんには2人の兄がいます。
長兄の名前は二階俊樹(にかい・としき)さん。[4]
1965年〈昭和40年〉4月26日生まれで、早稲田大学理工学部卒業後、父・俊博さんの秘書に就任。
2016年〈平成28年〉5月、地元・御坊市長選に立候補しましたが、現職であった柏木征夫〈(かしわぎ いくお〉氏に大差で敗北。
その後も政治に関わり続け、現在は父や弟・伸康さんを裏から支える存在となっています。
◆次兄:二階直哉/政治家秘書、一般社団法人理事、民間コンサルタント
二階伸康さんの次兄の名前は、二階直哉(にかい・なおや)さん。[5]
1972年〈昭和47年〉5月22日生まれ。2008年8月から翌2009年9月まで、父・俊博さんが経済産業大臣を務めていた際に秘書官を務めました。
退官後は一般社団法人の理事や民間コンサルタントとして活動し、現在は政治とは距離を置いた道を歩んでいます。
◆妻:元ANAの同僚。離婚に同意
二階伸康さんは2011年に職場(ANA)の同僚と結婚しています。[6]
しかし、2024年12月の週刊ポスト報道でひと回り近く年下のバーの30代オーナーママと広島へ“隠密不倫旅行”をしていたことが判明。
週刊誌の取材に対し、伸康氏は

妻とは離婚協議の最終調整中
と語り、さらに事務所も
離婚の合意をしていることから、手続きを進めているところ
とコメントしました。
その後、離婚が成立したか否かは明確にされていません。
◆子供:1人
二階伸康さんには、妻との間に子供が1人います。[6]
2024年の不倫報道の際、
妻との間には幼い子供が1人いる
と報じられているので、この時点ではまだ幼かったと思われます。
◆まとめ
これまで見てきたとおり、二階伸康さんの挑戦の背景には、温かくも力強い家族の支えがあります。
父・俊博さんが築いた政治の基盤、母・怜子さんが育んだ家族の絆、長兄・俊樹さん、次兄・直哉さんという三兄弟の連携、そして結婚・子育てを経ての離婚協議といった人生の変化。
これらの重みを背負いながら、伸康さんは政治家として、新たな家族としての一歩を踏み出そうとしています。
家族の応援を胸に、二階伸康さんの挑戦はこれからも続いていきます(^o^)丿
◇出典
- Wikipedia 二階俊太郎
- Wikipedia 二階俊博
- 産経新聞 2019年2月23日 一番のファン…陰で支えた二階氏夫人の献身
- 週刊文春 2024年10月31日号 二階ジュニア“人望なし長男”が送った?「支援懇願メッセージ」の中身「陣営は『心のこもった文書』と…」《和歌山2区 二階vs世耕の行方は》
- Smart FLASH 2018年7月31日 二階俊博幹事長「次男役員企業」で起きた乗っ取り事件
- NEWSポストセブン 2024年12月16日 二階俊博元幹事長の三男・伸康氏が年下30代女性と“不倫旅行”報道
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