2018年4月23日、広島カープの黄金時代を築いた衣笠祥雄さんが亡くなりました。
今回は、「鉄人」衣笠さんの高校時代を振り返りたいと思います。
◆野球を始めたきっかけは?
広島のイメージが強い衣笠祥雄さんですが、実は京都の出身。
小学生のときは柔道をしていたのですが、京都洛東中学校には柔道部がありませんでした。
いろんな部を見て回った中で、たまたま野球部のバッティング練習を見て、
“面白そうだな”
と思ったのが、野球との出会いとなりました。
◆名門・平安高校時代
衣笠祥雄さんは、京都の平安高校(現・龍谷大平安)へと進み、野球を続けます。
平安高校野球部は、春夏で甲子園を四度制覇している強豪。
1年生だけで200人くらいの部員がいましたが、激しい競争を勝ち抜き、2年生の秋にレギュラーの座をつかみました。
練習は厳しかったけれど、
“甲子園に出たい”
という思いが勝り、野球を辞めたいと考えたことはありませんでした。
◆甲子園の成績は?
衣笠祥雄さんは、平安高校3年時に、春の第36回選抜高等学校野球大会と夏の第46回全国高等学校野球選手権大会に出場しています。
実は、衣笠さんにとって高校野球で楽しかったのは2回。
“春と夏の甲子園の入場行進”
の時だけだそうです。
チーム内の競争は激しく、レギュラーになったら「平安」の名を背負っている以上、
“負けられない”
というプレッシャーが強くありました。
ちなみに、甲子園での成績は、いずれもベスト8進出を果たしています。
◆高校時代のポジションは?
衣笠祥雄さんは平安高校2年の秋に、6番一塁手でレギュラーをつかみました。
3年生では強肩強打が買われ、ポジションは4番・キャッチャー。
この時バッテリーを組んでいたのが、後に関西六大学野球や阪神タイガースで活躍する、植木一智(うえき・かずとも)さんです。
◆まとめ
高校を卒業し、広島カープで、
“将来の正捕手”
と期待された衣笠祥雄さん。
しかし、キャッチャーとしてミスもあり、早々に内野手にコンバートされてしまいます。
ただし、打撃に専念できるファーストへの転向は「吉」と出ました。
その後の活躍は、プロ野球史に刻み込まれている通りです。
「鉄人」は天国へ旅立ちましたが、その爪痕は、永遠に語り続けられることでしょう。
ご冥福をお祈り申し上げます。
◇編集後記
ルーキー時代の衣笠祥雄さんは、フルサイズのアメ車『フォード・ギャラクシー』に乗り回し、遊んでばかりの問題児でした。
その「問題児」がどうやって「鉄人」へと変わっていったのか?
その辺の経緯は、
に綴られています(^_-)
コメント
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