プロ野球選手時代は「燃える男」、監督就任後は「闘将」と呼ばれた、星野仙一(ほしの・せんいち)さん。
今回は、そんな星野さんを支えた『家族』にスポットを当て、ご紹介します。
◆最期は2人の娘に抱かれ…
2018年1月4日、星野仙一さんは、膵臓がんのため亡くなりました。
星野さんは、2016年にはガンを告知されたものの、周囲には一切知らせなかったそうです。
2017年末には家族でハワイ旅行を計画していましたが、体調を崩し急きょ中止になります。
日本で家族と正月を迎え、おせち料理も楽しみましたが、2018年1月2日に倒れ容体が急変しました。
1月4日の早朝、愛する家族にみとられ、旅立ちます。
最期は2人の娘に抱きかかえられ、その表情は安らかだったということです。
娘の名前は、長女が千華さん、次女が和華さん。
ちなみに、和華さんの息子(星野さんの孫)の名前は“仙太”くんです。
ところで、星野さんの娘さんのことを調べると『永井病院』というキーワードが浮上。
『永井病院』は、三重県津市にある中堅病院ですが、星野さんの娘さんと関係あるのでしょうか?
ちなみに、『永井病院』の院長先生のお名前は“星野康三”さんと仰るようです。
◆妻が待つ天国へ…
星野仙一さんの夫人の名前は、扶沙子(ふさこ)さん。
2人のなれそめは、1965年の春のことでした。
岡山県出身の星野さんは明治大学の一年生で、東京出身の扶沙子さんは慶応大学文学部の二年生。
知人の紹介で、扶沙子さんが神宮球場にまんじゅうを差し入れたのが、交際のきっかけだったそうです。
星野さんはプロ入りを機に、扶沙子さんプロポーズします。
“もう決めた。お前に決めたから”
一方的にこう言われた扶沙子さんは、ただうなずくしかなかったのだとか(#^.^#)
星野さんは結婚後も野球が全てであり、家では完全な亭主関白でした。
そんな星野さんを、扶沙子さんは細かい気配りで支え続けました。
大事な試合の前日には、星野さんに内緒で、近所の寺社3箇所を巡っていたといいます。
1987年からは中日ドラゴンズの監督を務めた星野さんですが、1991年に「健康上の理由」で辞任。
しかしこれは表向きの理由であり、実際には夫人の白血病発症が大きく関係していました。
以来、星野さんは片時も扶沙子夫人のそばを離れず、献身的な看病を続けます。
そして、病状が快方に向かった時、扶紗子夫人は星野さんにこう言いました。
“私ね、やっぱりあなたのユニホーム姿が一番好き”
妻の後押しを受けて、星野さんは再び中日の監督に復帰します。
そして、復帰から1年後の1997年1月、妻・扶沙子さんは天国へ旅立ちました。
享年51歳。
星野さんは葬儀で、
“扶沙子は、こよなく名古屋を愛し、私以上にドラゴンズを愛し、頑張ってくれた……”
と話し、普段は見せない大粒の涙を流しました。
◆実家の父親
星野仙一さんは、岡山県児島郡福田町(現・倉敷市)の出身。
父親の名前は、正田仙蔵さんと言って、三菱重工業名古屋航空機製作所の航空技術者でした。
1943年、岡山県に三菱重工業水島航空機製作所が開設されると、父・仙蔵さんはそこの工長(技術系下士官)を命じられ、一家で岡山県に移り住みます。
しかし父親は、脳腫瘍に侵され、星野さんが生まれる前に48歳の若さで亡くなっています。
◆母親の名前は?
星野仙一さんの母親の名前は、星野敏子さん。
父・仙蔵さんと名字が異なるのは、双方とも生家の後継ぎだったことから、入籍をしていないためです。
そして、
“最後に生まれた子供が、(母方の)星野の姓を継ぐ”
という約束通り、末っ子の仙一さんが星野姓を名乗ることとなりました。
亡き父に代わって家計を支えるため、母・敏子さんは午前3時から豆腐店で働き、昼には夫が働いていた工場の寮母を。
そして夜には知り合いの店で皿洗いをこなし、まさに身を削って働きました。
星野さんが倉敷商業高校に進学すると、敏子さんは珍しく強い口調でこう言いました。
“今の時代、これからの時代は、絶対に大学に進まなくてはダメ。卒業してすぐプロに行くのではなく、大学で勉強しなさい”
星野さんは言いつけを守り、プロからの誘いを断って明治大学に進学しています。
明治大学でも活躍した星野さんは、1968年のドラフト会議で『中日ドラゴンズ』から1位指名。
1800万円もの契約金を手にした星野さんが最初にしたことは、母・敏子さんへの恩返しとして、400万円を送ることでした。
さらに、残りをお世話になった人や、高校、大学への寄付などに使い、星野さんの手元にはほとんど残らなかったそうです。
◆2人の姉
星野仙一さんには、2人の姉がいます。
長姉が美和子さん、次姉は須恵子さんというお名前です。
前述の“約束”があるため、姉2人は実の姉弟でありながら姓が異なり、『正田』の姓を名乗っていました。
◆まとめ
星野仙一さんの妻・扶沙子さんが旅立ってから2年後。
星野監督は、夫人の夢であった“優勝”を決め、胴上げで宙に舞いました。
奇しくも、胴上げの場所は、扶沙子夫人と初めて出会った思い出の地「神宮球場」。
今ごろ2人は天国で再会し、思い出話に花を咲かせていることでしょう。
ご冥福をお祈り申し上げます。
◇編集後記
星野仙一さんが、阪神タイガースの監督に就任したことを記念した腕時計がこちら。
Sinn / ジン 303.Tiger タイガース 星野仙一監督就任モデル 77本限定【中古】
タイガースカラーのイエローがアクセントになっていますね。
背番号と同じく、国内限定77本という、非常にレアな逸品です(^_-)
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