2017年7月18日、聖路加国際病院・名誉院長の日野原重明(ひのはら・しげあき)さんが亡くなりました。
今回は、日野原さんを支えた『家族』にスポットを当て、在りし日の日野原さんを偲びたいと思います。
◆父親の職業は牧師
日野原重明さんの父親の職業は牧師。
日野原さんが生まれた時は、アメリカにあるユニオン神学校に留学中でした。
日野原さんは、父親の影響を受け、7歳で受洗しています。
お父さんは留学から帰国すると、大分メソジスト教会や神戸中央メソジスト教会を経て、広島女学院長に就任。
日野原さんも、大分や神戸で幼少期を過ごしています。
◆母親の出身は山口県
日野原重明さんのお母さんの名前は、満子さん。
母・満子さんは山口県吉敷郡下宇野令村の出身であり、日野原さんもお母さんの実家で生まれています。
働き者で、やりくり上手だったお母さんが急に倒れたのは、日野原さんが10歳の時。
尿毒症になって、夜中にけいれんを起こし、意識を失ってしまいます。
かかりつけ医師の安永謙逸先生は、
これは非常に重篤だ
と言いましたが、
助かるの?
と質問する日野原少年に、先生は黙ってうなずいてくれました。
安永先生の処置もあり、事なきを得たお母さん。
あのようなお医者さんになって、病弱な人の面倒をみたい
と、子供ながらに思ったのが、日野原さんが医師を志す動機になりました。
◆6人兄弟の次男
日野原重明さんは、6人兄弟の次男。
明治の年号にちなみ、兄弟全員の名前に「明」の字が入っているそうです。
1歳上にはお姉さんがいましたが、負けん気が強い日野原少年は、1歳上の姉を追い抜いてやろうと考えます。
小学1年の時に、本来なら2年で習うひらがなをすべて覚え、毎朝の聖書の輪読は、お姉さんより先にできるようになりました。
◆認知症の妻は4年前に死去
日野原重明さんの父・善輔さんは、広島女学院の院長を定年でやめて、上京。
田園調布の教会で牧師を務めましたが、その教会の日曜学校で教えている女性がいました。
すると教会の役員が、
いいお嬢さんだから、どうですか?
と交際を勧めてくれます。
その女性は、性格がとても素直で、日野原さんと同じ神戸育ち。
いいお母さんになれそうだと思い結婚したのが、妻・静子さんでした。
◆息子が3人
日野原重明さんと静子さんの間には、3人の息子さんがいます。
長男の名前は明夫さん、次男は直明さん、三男は知明さんです。
次男の妻である眞紀さんは、日野原さんが亡くなる7年前から同居し、講演会などにも同行しました。
亡くなる前には約半年間、介護を務め、家族の中で一番長く一緒に過ごしています。
◆三男は医師
三男の日野原知明さんは医師であり、慶応大学の医学部を卒業しています。
現在は米国在住で、米国セコイア病院のカテーテルラボラトリー主任。
カテーテル機器・材料の開発者としても有名だそうです。
◆まとめ
晩年、80歳を超えた妻・静子さんは、認知症を発症します。
記憶が著しく衰え、車椅子に無表情で座り、ただ日々生きている静子さん。
そんな妻の寿命が尽きる日を…家に帰ったときに手を握って
ただいま・・・
と言えなくなる日が来ることを、日野原さんは何よりも恐れていたといいます。
4,000人もの患者を看取ってきた100歳の現役医師でも、目の前に迫る妻の死を覚悟できなかったのです。
しかし、逆を言えば、それだけ静子さんは、日野原さんにとってかけがえのない存在だったのでしょう。
4年前、先に旅立った静子さんと、今頃は天国で再開を楽しんでいることでしょう。
ご冥福をお祈り申し上げます。
◇編集後記
105歳になった日野原重明さんが、死の直前まで語った言葉が本になっています。
生きていくあなたへ 105歳どうしても遺したかった言葉 [ 日野原重明 ]
“人間は弱い。死ぬのは僕もこわいです”
こう話しながらも、日野原さんが後世に伝えたかった言葉とは、一体何だったのでしょうか…?
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