さいとう・てつお【斉藤鉄夫】
1953年〈昭和28年〉2月5日生まれの政治家。
公明党代表を務め、広島県を地盤とする衆議院議員です。
技術者としての専門性を活かし、省エネルギーや環境政策の分野でも存在感を発揮しています。
◆実家・生い立ち
斉藤鉄夫さんは、島根県邑智郡羽須美村大字阿須那(現在の邑南町)に生まれました。[1]
その後、広島県広島市で育ち、羽須美村立阿須那小学校、広島市立国泰寺中学校を経て、名門・修道高等学校に進学。
高校2年のときに創価学会に入会し、信仰が精神的支柱となります。[1]
1974年に東京工業大学理学部応用物理学科を卒業し、1976年に同大学大学院修士課程を修了。
さらに1985年には工学博士号を取得しています。
博士論文のテーマは「鉄筋コンクリート用異形棒鋼のガス圧接部の超音波探傷試験法の研究」。[2]
大学院修了後は清水建設に入社し、技術者としてのキャリアをスタートさせました。
◆父親
父親は、後に自由民主党の党籍を持つ村議会議員を務めた人物です。[1]
地方政治に携わる父の姿を間近で見ながら育った斉藤さんは、自然と社会や政治に関心を深めていきました。
また、山間の棚田しかないような地域で、家を継ぐ長男以外はみな外に出ていくのが当たり前という土地柄の中、
おまえは独り立ちをしていかないといけない
と父から言われて育ったそうです。
その言葉が原動力となり、

それなら一生懸命勉強しないとという意識はもっていました
と振り返っています。[5]
◆母親
斉藤鉄夫さんの母親は、斉藤さんの人格形成に大きな影響を与えた存在です。

母は優しくて控えめな人でしたね
と語る斉藤さん。
小学校低学年のとき、庭で遊んでいて頭を石にぶつけて顔中血だらけになった際、縁側から裸足で駆け寄り、ギューッと抱きしめてくれた母の姿が、今でも心に残っているそうです。[5]
「勉強しろ」と言われた記憶はないものの、その無言の支えとぬくもりこそが、斉藤さんの優しさの原点かもしれません。
◆兄弟姉妹
斉藤鉄夫さんには、兄と姉がいました。
令和元年〈2019年〉5月、その姉が亡くなった際、思いがけない事実が明らかになりました。
姉の亡き夫が長年にわたり投資を行っており、その結果として姉には斉藤さん自身も驚くほどの多額の資産が遺されていたのです。
遺言公正証書には、弁護士と税理士の2名が遺言執行者として指定されており、その結果、斉藤さんは約3,000万円相当の不動産と有価証券、当時の評価額でおよそ2億2,000万円にのぼる財産を相続することとなりました。[6]
姉には子どもがいなかったため、斉藤さんが相続人となり、また、亡くなった兄の4人の子供たちが代襲相続人となりました。

皆さん、突然来た遺産という認識かと思います
と語るその言葉には、姉への思いと、人生の予期せぬ展開に対する静かな驚きがにじみ出ています。[6]
◆妻
斉藤鉄夫さんの妻の名前は公表されていません。
専業主婦として家庭を守りながら、政治家として多忙な夫を支え続けてきました。
選挙戦でも地域の支援者と誠実に向き合い、斉藤さんの信頼を陰で築いてきた存在です。[3]
斉藤さんは、

妻に“あなたはイクメンではなかったわね”と言われますが、もっと子育てに参加したかった。それは本当に反省しています
と語り、仕事に没頭してきた年月の中で、家族との時間をもっと大切にすべきだったという想いをにじませています。[5]
◆娘が3人
斉藤鉄夫さんには3人の娘がいます。[4]
すでにそれぞれの道を歩んでおり、家族ぐるみの交流を大切にしています。現在では2人の孫にも恵まれ、祖父としての喜びも味わっています。

娘のパートナーを見ていると、会社を時短にしたり休んだりして子育てに熱心に関わっています。我われの世代は“24時間働けますか”という時代で、家や子どものことを言うと“おまえ、それでも男か!”と言われるような時代でした
と斉藤さん。[5]
時代の変化を実感しながら、子育てへの関わりをもっと深めたかったという率直な気持ちを語っています。
◆まとめ
これまで見てきたとおり、斉藤鉄夫さんの活躍の陰には、温かく支えてくれた『家族』の姿がありました。
家族の応援を胸に、斉藤鉄夫さんの挑戦はこれからも続いていきます(^o^)丿
◇出典
[1] Wikipedia「斉藤鉄夫」
[2] 博士論文データベース「鉄筋コンクリート用異形棒鋼のガス圧接部の超音波探傷試験法の研究」
[3] 産経新聞 2022年12月5日 「支える妻たち」
[4] 月刊『パンプキン』 2024年10月号 「長年学んできた科学の力を生かし、安心・安全な社会を!」
[5] 潮プラス 2024年9月25日 「長年学んできた科学の力を生かし、安心・安全な社会を!」
[6] 国土交通省 2021年11月5日 斉藤大臣会見要旨
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