10代の教祖――。
なんてちっぽけで、なんて意味のない、なんて無力な表現だったのでしょう…
今もなお語り続けられる伝説が、そのことを証明し続けているのが、尾崎豊さんです
今回は、そんな尾崎さんを愛し、そして愛された『家族』の物語をご紹介します。
◆最愛の妻・繁美さん
①妻・繁美さんとの馴れ初めは?
尾崎豊さんは1988年5月12日、22歳の時に結婚しています。
最愛の妻の名は、繁美さん。
年齢は、尾崎さんより2歳年下になります。[1]
尾崎さんと繁美さんの馴れ初めは、1986年5月12日のこと。
20歳になって方向性を見失っていた尾崎さんは、無期限の活動休止を宣言し、単身、アメリカのニューヨークへ渡ることになっていました。
ニューヨークへ旅立つ前日、尾崎さんの青山学院高等部時代の友人が激励会を企画。
友人に誘われて参加したのが、妻・繁美さんだったのです。
そのちょうど2年後の、1988年5月12日。
尾崎さんと繁美さんは、本駒込にある区役所の出張所へ、婚姻届を提出しています。
②妻に捧げた“I LOVE YOU”
尾崎豊さんと妻・繁美さんの結婚生活は、決して平坦なものではありませんでした。
その最大の事件が、1991年3月に発覚した、斉藤由貴(さいとう・ゆき)さんとの不倫。
『月刊カドカワ』の企画で対談した2人はすぐに意気投合し、北海道で仲睦まじく肩と顔を寄せ合う姿が『FRIDAY』に掲載されます。
釈明会見を開いた斉藤由貴さんは、
と複雑な心境をのぞかせ、大きな波紋を呼びました。
不倫騒動が一段落した、1991年の10月30日。
代々木オリンピックプールでのライブの朝、尾崎さんは妻・繁美さんにこう語りました。
そして尾崎さんは、2階席にいる繁美さんを真っ直ぐに見つめながら“I LOVE YOU”を歌ったのでした。
結果としてこの日のライブが、尾崎豊さんの生涯最後のライブとなっています。
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この日から半年後、尾崎さんはこの世を去りました。
亡くなった原因は繁美さんとの不和…とも報道され、尾崎家には嫌がらせの電話が殺到します。
「子供を誘拐する」という脅迫まであったと言います
気の遠くなるような騒ぎの中で、しかし、繁美さんには守るべき生命がありました。
私には、尾崎が遺してくれた息子がいる。生きてゆかなければ
繁美さんは幼い子供を連れ、日本を離れています。
◆息子・裕哉さん
①息子の生い立ち
尾崎豊さんの息子さんの名前は、尾崎裕哉(おざき・ひろや)さん。
1989年7月24日、尾崎さんの長男として生まれました。
父の死から2年後の1994年夏、5才だった裕哉さんは、母・繁美さんとアメリカ・ボストンへ移住します。[2]
小学6年生になると、裕哉さんは父の楽曲の虜になりました。
2005年、15才で帰国。
11年間の米国生活で日本語を忘れかけていたため、アメリカンスクールに通学しながらも、
という思いが強まっていきました。
寝る間も惜しんで日本語を習得した裕哉さんは、慈善活動を行うジョンウッド氏の話しに感銘を受け、
と考えるようになります。
アメリカンスクールを卒業するタイミングで、
と宣言した裕哉さん。
母・繁美さんの答えは「馬鹿野郎」でした(^_^;)
その頃は曲も書いていなかったので、とりあえず準備期間として大学へ進学することになります。
しかし、とりあえず進学したのが慶應義塾大学なので、地頭が良かったのですね
②息子が歌う“I LOVE YOU”
尾崎豊さんの息子・裕哉さんは、大学に行きながら曲を書き始めましたが、最初は歌詞が全然書けませんでした。
父親の存在が偉大すぎて、意識するつもりがなくても意識してしまう。
と語る裕哉さんは、20歳から5~6年くらいは全然書けなくて、苦しい時間を過ごしました。
転機となったのは、バークリー音楽大学のサマープログラムに短期で参加したこと。
講師であるパット・パティソン氏の
誰が、誰に、なぜ歌うのか?が大事だ
という言葉にハッと気付かされました。
「作品でなければならない」という想いから解放された裕哉さんは、ここから「尾崎裕哉」としての道を歩き始めます
2016年7月16日、尾崎裕哉さんはTBS『音楽の日』に出演し、“I LOVE YOU”を熱唱しました。
「歌声がお父さんそっくり」と話題になりますが、特に意識したものではありません。
「尾崎豊」の息子であることを受け入れて、「尾崎裕哉」として表現したありのままの姿が、そこにはあったのです。
◆実家は練馬区から朝霞市へ
尾崎豊さんは、幼少期を東京都練馬区で過ごしています。
練馬区立田柄(たがら)第二保育園から田柄第二小学校に入学。
1976年8月、小学5年生の時に埼玉県朝霞(あさか)市へ転居し、朝霞市内の公立小学校へ転校しました。
しかし、転校先の学校に馴染めず、毎朝登校する振りをして家を出た後、1時間ほどして家に帰るという毎日。
小学校6年生になると、半年に渡り登校拒否を続けました。
この間、心の支えとなっていたのが、お兄さんが持っていたクラシック・ギター。
尾崎さんは家にこもり、「井上陽水」「さだまさし」「イルカ」の曲をギターで弾きながら歌っていたのでした。
中学校は本人の希望で、練馬区立練馬東中学校へ越境入学。
ちなみにバレーボールの中田久美(なかた:くみ)さんは、この中学で同級生に当たります。
そして中学2年の冬。
仲間が教師に「髪が長すぎる」という理由で丸刈りにされたことに反発して、〈仲間たち〉数人で〈家出の計画〉をたてました。
15の夜ですね♪
〈家出の計画〉が立てられたのは、練馬区立向山(こうやま)公園で、そこから〈仲間たち〉は、旧米軍キャンプ跡地の車のスクラップ置き場へ移動。
今度は『Scrap Alley』です♪
そして車の中で寝ていたところを、探しに来た先生たちに見つかり、〈家出の計画〉は終了したのでした。
◆父親の職業は元自衛官
尾崎豊さんの父親の名前は、尾崎健一さん。[3]
1926年12月6日生まれになります。
父・健一さんの職業は、元防衛庁の事務官でした。
陸上自衛隊練馬駐屯地に所属していた時に尾崎さんが生まれ、一家が朝霞に移ったのも、健一さんが朝霞駐屯地に転属となったためです。
父・健一さんは趣味に生きた人でもあり、著書には、
歌誌『表現』同人。都山流尺八師範。躰道(空手)五段。
の肩書があります。
それぞれの趣味は尾崎さんにも受け継がれていて、尾崎さんの幼少期の夢は「空手の先生」。
あまり想像できませんが、尺八も結構上手かったのだとか…
しかし、後の尾崎さんの創作活動に最も影響を与えたのは「短歌」ではないでしょうか。
落書きの 教科書と 外ばかり見てる俺
超高層ビルの上の空 届かない夢を見てる
やり場のない 気持ちの 扉破りたい
校舎の裏 煙草をふかして 見つかれば逃げ場もない
『15の夜』より♪
言葉だけでも、リズムがありますよね。
そうでなければ、弱冠10代半ばの少年が、ほとばしる情熱を歌にしたところで、社会現象を生むほどのクオリティは出せなかったと思います。
父・健一さんはギターに熱を上げだした尾崎少年に、
そんなにギターが好きなら、(先生について基礎から)本格的にやったほうがいいじゃないか
と声を掛けたことがあります。
しかし、尾崎少年の答えはこうでした。
健一さんはこの言葉に、自分とは異なる資質を感じ取ったと言います。
◆母・絹江さん
①明るく、そしてナイーブだった母
尾崎豊さんの母親の名前は、絹枝さん。[4]
母・絹江さんは飛騨高山の出身で、地元の素人演劇グループに参加する一方、俳句の会にも所属し賞をとるほどの腕前でした。
結婚してからは「短歌」や「民謡」に打ち込み、民謡では色んな大会に出場しています。
尾崎さんの音楽的資質は、母親から受け継いだ部分も大きかったという事でしょう。
母・絹江さんの性格は、ひと言でいうと「陽」。
どこか懐かしいような親しみがある方で、友人知人も多く、仕事場でも雰囲気づくりの中心にいるタイプでした。
一見、尾崎さんと正反対のように思えますが、実は尾崎さんもステージを降りると、結構「ネアカ」だったと言われています。
一方、絹江さんには「陰」の部分もあり、一人になると思い悩むことも多かったようです。
終生不眠症に悩まされて、睡眠薬は欠かせなかったのだとか。
この辺も、ナイーブな尾崎さんによく似ていますね。
②母の最期の日…死因は?
1991年12月29日の日曜日。
尾崎豊さんの母・絹江さんは、孫にクリスマスプレゼントを買うために家を出ます。
12月の寒い中、朝霞駅まではスクーターで行き、朝霞駅の階段を降りたところで不調を感じてうずくまりました。
駅員が気づき事務室に連れて行きますが、絹江さんはろれつが回りません。
すぐに病院へ運ばれ救急処置を受けましたが、すでに心臓は止まっていました。
享年61歳――。
母・絹江さんは、若い頃から激しい頭痛に襲われて入院することがあり、血圧も高めだったと言います。
実家には『救心』という心臓の薬があったので、絹江さんは心臓の異常を感じていたのでしょう。
似た部分が多かったため、尾崎さんと母・絹江さんは誰よりも心が通じ合っていました。
それ故に尾崎さんは、絹枝さんが亡くなった時、誰よりも嘆き悲しんだと言います。
形見分けでは、母・絹枝さんが買って使わなかった「切符」だけを、尾崎さんは選んで持ち帰っています。
尾崎さん自身が亡くなる、僅か4カ月前の出来事でした。
◆兄・康さんは弁護士
尾崎豊さんにはお兄さんがいて、名前は尾崎康(おざき・やすし)さん。[5]
1960年生まれなので、尾崎さんより5歳年上になります。
早稲田大学法学部を出て、裁判所の書記官となった兄・康さん。
尾崎さんの死後、旧司法試験に合格し、弁護士や横浜地裁・名古屋地裁の裁判官として活躍しました。
現在は埼玉・浦和で、『県庁通り法律事務所』に所属しています。
私生活では、尾崎さんの良き相談役として頼りにされていた兄・康さん。
尾崎さんがうまく行っている時は遠くから見守り、ドツボにはまった時には愛情あふれる行動で尾崎さんを立ち直らせました。
尾崎さんが亡くなった時に持っていたのは、母の形見の切符と、一枚の写真。
写真は、尾崎さんと康さんが小学生と中学生の頃に撮ったもので、自転車に乗った兄弟がこちらを見て笑っているものでした。
◆まとめ
尾崎豊さんの代表曲“I LOVE YOU”は、実は即興に近い形で作られた曲です。
しかし即興だからこそ、尾崎さんの感性が自然に表現され、後年に歌い継がれる名曲となったのでした。
この曲の根底に流れる「愛と犠牲」のテーマは、一冊の本が源流となっています。
それは、尾崎さんが2歳の時に父親が買い与え、母親が毎晩読んでくれた『難破船の少年』。
ある船の上で少年と少女が出会う。
少女は貧しさから売られてしまい、久しぶりに親に会いに行く旅。
そして、少年は両親を亡くし、仕事を探しに行く旅だった。
突然嵐が訪れ、船を飲み込んだ。
激しく揺れる甲板で、少年は頭に怪我をする。
少女は自分の服を破り、少年の頭に巻いてあげる。
やがて船が沈没しようとする時、一艘の救命ボートから声がかかった。
『あと一人なら乗れる』と。
少年は少女を助けてもらおうと、少女を海へ突き落とす。
そして、少女は無事救出される。
少年は叫ぶ、 『君には親がいて、君のことを待っているんだ。幸せに。』
少女は、沈没していく船の上で、少年が手を振っているのを見つめている。
“I LOVE YOU”は、幼い尾崎さんを育んだ家族の思いが、形になった作品とも言えるのですね
この名曲は、妻へ、息子へ、その先の世代へ…永遠と歌い継がれていくことでしょう。
◇脚注
- FRIDAY 2017年3月16日 尾崎豊の妻 繁美夫人に「ガーナゴールド詐欺の仲介役」疑惑
- 尾崎裕哉公式ホームページ 2021年3月3日確認 プロフィール
- 日刊スポーツ 2011年11月9日 尾崎豊さん遺書「死にたいと思っていた」
- 県庁通り法律事務所 2021年3月3日確認 弁護士紹介
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