2017年10月26日、クイズダービーで人気を博した、フランス文学者の篠沢秀夫(しのざわ・ひでお)さんが亡くなりました。
今回は、そんな“篠沢教授”を取り巻く『家族』の物語です。
◆息子は海難事故で…
1975年8月29日、篠沢秀夫教授は42歳の時に、息子さんを亡くしています。
息子さんの名前は玄さん。
死因は事故で、海水浴の際に高波にさらわれ、僅か14年の短い生涯を閉じています。
クイズダービーの出演が始まったのは1977年からなので、飄々とした笑顔の裏には慟哭が隠されていたのです。
2010年8月29日、篠沢教授はブログで
“今、玄が生きていれば50歳だ。時間の重みを感じる”
と綴りました。
わずか4行の文章でしたが、行間にある思いは、原稿用紙数百枚にもいたるものがあった事でしょう。
◆妻は自動車事故で…
篠沢秀夫教授は、東京大大学院を経て、フランス留学生試験に首席で合格しています。
そして、交際していた4歳年上の女性と結婚し、新婚旅行を兼ねてフランスへと渡りました。
しかし、フランスで自ら運転する車で交通事故を起こし、奥さんを亡くしてしまいます。
この時、残された息子さんを見て、
“自分が独りで立派に育てなければ”
と決意したという事なので、息子さんは既に生まれていたのですね。
しかし、その息子さんも後に、母親の後を追ってしまいました。
◆現在の妻
篠沢秀夫教授は、後に再婚されています。
現在の妻の名前は、礼子(れいこ)さん。
1940年生まれなので、今年(2017年)で77歳になります。
妻・礼子さんは埼玉県出身で、学習院大仏文科を卒業。
そのまま学習院大の副手をしていた時に、非常勤講師だった篠沢教授と出会いました。
1965年に結婚。
3人の子供を育て上げた夫妻に、災難が襲いかかります。
2009年2月、76歳の篠沢教授が、難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断され、余命3年を宣告されたのです。
“治療法がない”
と説明する医師に、礼子さんは
“奇跡はないんですか”
と尋ねたそうです。
しかし答えは、
“誤診でない限り、ありません”
というもの。
礼子さんは、診断書にある「進行性」という文字を消したくて消したくて、たまらなかったそうです。
◆娘と初孫
それから妻の礼子さんは、
“食欲が落ちて、眠れず、起きあがれない”
という、うつ病のような状態になりました。
落ち込む礼子さんに、娘さんは
“ママにしっかりしてもらわなきゃ困る”
と励ましたそうです。
娘さんは、篠沢教授にとっての初孫を産んだばかりで、
“おじいちゃまの記憶が残るまで生きていてほしい”
と強く願っていたのですね。
それを聞いて礼子さんは、
“大変なのはパパなんだから、私がめそめそしていちゃだめ”
と、覚悟を決めることができました。
◆息子も協力
人工呼吸器をつけた篠沢秀夫教授を自宅で介護するにあたって、大変だったのは、たんの吸引です。
自力でたんを出せないので、四六時中見守り、細い管で取り除かなければなりません。
礼子さんは怖くて不安でしたが、娘や息子も吸引の練習をして協力してくれました。
家族の愛情の賜物でしょう、篠沢教授は余命宣告の3年を超えて、8年間の余命を全うされています。
◆まとめ
篠沢秀夫教授は、69歳の時に初の詩集“彼方からの風”を刊行しています。
一部を引用します。
“子供のぼくが 死んだぼくの子供と 半ズボンで野原を走る
手をつないで走る まじめに走る それは息子だ 同じ背だ
そして生きている娘が ぼくたちの妹になって うしろを走る”
息子さんの死後、その事を口にする事もできなかった篠沢教授が、詩を書く事で自分の気持ちに整理をつけようとされたのでしょう。
今頃は天国で、久方ぶりの再開を果たしているに違いありません。
ご冥福をお祈り申し上げます。
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