世界中の老若男女から愛されるレジェンド、ジョンレノン。
今回は、そんなジョンが愛した『家族』の物語です。
◆父親・アルフレッド
ジョン・レノンの父親の名前は、アルフレッド・レノン(Alfred Lennon、1912年~1976年)。[1]
職業は、商船の船員を務めていました。
しかし、ジョンが2歳の時、アルフレッドは連絡が途絶え、生活費も送ってこなくなります。
このことから、ジョンの母親は夫に見切りをつけ、新しいパートナーと暮らし子供までもうけてしまいます。
◆母親・ジュリア
ジョン・レノンの母親の名前は、ジュリア・レノン(Julia Lennon、旧姓Stanley、1914年~1958年)。[1]
アルフレッドと結婚する前は、映画館の案内係をしていました。
夫に見切りをつけ新しいパートナーと同棲を始めたジュリアは、ジョンを姉・メアリー(Mary Smith)のところに預けます。
「ミミ伯母さん」と呼ばれたメアリーは、ジョンが青年になるまで愛情を注いで育ててくれました。
1958年、母・ジュリアは、夜勤に向かう警官が運転する自動車にはねられ、帰らぬ人となっています。
◆最初の妻・シンシア
ジョン・レノンは、1962年に最初の結婚をしています。
最初の妻の名前は、シンシア・レノン(Cynthia Lennon、旧姓: Powell)。[2]
1939年9月10日生まれなので、ジョンより1歳年上になります。
2人の馴れ初めは、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートの生徒として出会ったことでした。
すぐに交際が始まり、1961年にシンシアがカレッジを卒業すると、翌1962年に結婚。
シンシアの存在は、マネージャーのブライアンにより、数年間ファンから隠されていました。
1968年に離婚。
2015年4月1日、息子に看取られながら、がんのため亡くなりました。
◆長男・ジュリアン
結婚の翌年、ジョン・レノンとシンシアの間に、男の子が誕生します。
ジョンにとって最初の子となる愛息の名前はジュリアン・レノン(John Charles Julian Lennon)[3]
1963年4月8日生まれとなります。
しかし、両親と生活したことがないジョンは、ジュリアンにどう接していいか分かりませんでした。
当時、ジョンはポール・マッカートニー(Paul McCartney)に対し、
どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか?やり方がわからないんだ
と悩みを打ち明けたことがあります。
5歳の時、ジョンとシンシアは離婚。
両親が険悪である時期に、ポールがジュリアンを励ますため作った曲が、『ヘイ・ジュード』です。
1996年、「ヘイ・ジュード」のレコーディング用楽譜類譜がロンドンでオークションに掛けられました。
このときジュリアンは、
ポールが僕のために作ってくれた曲だから
と、25,000ポンド(約350万円)で落札しています。
◆愛妻・オノヨーコとの馴れ初め
1969年3月、ジョン・レノンは2度目の結婚をしています。
2人目の妻となったのは、日本人のオノ・ヨーコ(小野洋子)[4]
1933年2月18日生まれなので、ジョンより7歳年上になります。
ジョン・レノンとオノ・ヨーコ、展覧会「ダブル・ファンタジー」の会期が延長されることが決定 https://t.co/hmRUlnrazo
— u me (@N8hOhMcqz5qQZvI) December 24, 2020
2人の馴れ初めは、1966年11月9日のこと。
ヨーコがロンドンで開催する個展『未完成の絵画とオブジェ』に、知人に誘われたジョンが訪れたのでした。
そこに『金槌とクギ』という作品があり、
クギをハンマーで打ち込め
って書いた掲示板があったため、ジョン『やってもいか?』と尋ねます。
ヨーコの答えはNO。
しかし画廊の主人が出てきて、
やらせなさいよ。この人は大金持ちだから、買い上げてくれるかも知れないよ
と助言したため、ヨーコは、
いいわ。5シリング出してくれたらやってもいいわ
と妥協しました。
ジョンは答えます。
わかった。5シリング君にあげたつもりで、クギをハンマーで打ち込んだつもりになるよ
このやりとりで親密になった2人が恋に落ちるのに、時間は必要ありませんでした。
◆息子・ショーンと過ごした日々
結婚から6年後、ジョンとヨーコの間に男の子が生まれています。
息子の名前はショーン・レノン(Sean Taro Ono Lennon)。[5]
1975年10月9日生まれなので、ジョンと誕生日が同じですね。
ショーンが生まれて間もない頃、ジョンはレコード制作に辟易としており、所属レコード会社との契約が切れると音楽活動を停止。
その後ジョンは主夫となり、幼いショーンを育てることに没頭しています。
1977年以降は一家で、日本の軽井沢にある小野家の別荘や、定宿の万平ホテルに長期間滞在。
旧軽井沢や離山房(喫茶店)でショーンを連れて歩くジョンの姿が、現地で多く目撃されています。
そして1980年12月8日。
ジョンは狂信的なファンの銃弾に倒れます。
このとき、ショーンは5歳でした。
ジュリアンは5歳の時にジョンと離別し、ショーンは5歳の時にジョンと死別したのです。
◆まとめ
ジョンの生前のラストアルバムとなったのが、ヨーコとの共作『ダブル・ファンタジー』。
このラストアルバムに『ビューティフル・ボーイ』という曲が収録されています。
直接的には次男ショーンのことを歌った歌ですが、ジョンの脳裏には長男ジュリアンの姿も浮かんでいたのかもしれません。
ジョンの魂は現在でも、ジョンの家族によって確実に引き継がれています(^o^)丿
◇脚注
- Wikipedia 2021年1月1日確認 ジョン・レノンのページ
- Wikipedia 2021年1月1日確認 シンシア・レノンのページ
- Wikipedia 2021年1月1日確認 ジュリアン・レノンのページ
- Wikipedia 2021年1月1日確認 オノ・ヨーコのページ
- Wikipedia 2021年1月1日確認 ショーン・レノンのページ
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