山本昌邦氏。
サッカー日本代表の多くのチームでヘッドコーチを歴任してきた実力者であり、日本サッカーの礎を築いた方でもあります。
落ち着いた口調で戦況を分析する解説が聞きやすいと評判で、重要な試合では必ずと言っていいほど解説を務めています。
今回は日本サッカー界の名伯楽、山本昌邦氏の来歴と家族についてまとめていきます。
【本人プロフィール】
氏名:山本昌邦(やまもと・まさくに)
生年月日:1958年4月4日(60歳)※2018年6月現在
出身地:静岡県沼津市
身長/体重:182cm/77Kg
現役時代所属チーム:
ヤマハ発動機(※後のジュビロ磐田:1981-1987)
監督時代指揮チーム:
日本代表U-20(1995-1997)
→日本代表U-23(2002-2004)
→ジュビロ磐田(J1:2004-2006)
◆山本昌邦の家族構成
山本昌邦氏の家族構成は、両親と弟の4人家族のようです。
山本氏自身のご家族は、奥様と息子さんの3人家族です。
◆山本昌邦の来歴~選手として
山本昌邦氏が現役サッカー選手として活躍していた頃は、冷静な判断と鋭いタックルを武器にしていました。
今でいうと鹿島アントラーズの内田篤人選手に近いプレースタイルですね。
1977年、19歳の時にユース世代の代表として日本代表に選出されます。
その後、AFCユース選手権やユニバーシアード選手権、1982年のW杯予選などに出場しました。
1981年にジュビロ磐田の前身であるヤマハ発動機に入団。
1982年に日本リーグ2部優勝に貢献し、1983年には天皇杯優勝の立役者となったそうです。
しかし、肩関節の脱臼癖が完治せず、29歳という若さで現役を引退しました。
◆山本昌邦の来歴~指導者として
引退後は指導者としてヤマハ発動機コーチを務めました。
1992年にはその手腕が認められ日本サッカー協会のナショナルコーチングスタッフに抜擢されます。
現日本代表監督の補佐として、ユース世代の強化に取り組みました。
1996年のアトランタオリンピックでは、ブラジルを撃破したマイアミの奇跡にコーチとして立ち会いました。
その後、U-20の代表監督に就任し、1997年のワールドユース選手権で当時最高の8位入賞を果たします。
U-20代表監督退任後は、コーチとしてトルシエジャパン、ジーコジャパンを補佐。
そして2002年アテネオリンピックでは、出場するU-23代表監督に就任しました。
本大会では1勝2敗と成績が振るわず、代表監督を退任します。
2004年までは解説者や指導者として活躍。
その後、古巣であるジュビロ磐田の不振を救うべく白羽の矢が立てられ、シーズン途中からのジュビロ磐田を率いることになりました。
2006年の6月にナビスコカップ(現ルヴァンカップ)準々決勝で横浜F・マリノスに敗れた後、自ら責任を取る形で辞任しました。
現在は、指導者や解説をしながら、自身の指導法などを伝える講演家として、サッカーだけではなく、ビジネスシーンにおいても活躍されています。
◆スペイン流サッカー指導者として貢献する息子
山本昌邦氏の息子さんは、父と同じように指導者の道を歩んでいるようですね。
山本健太さんというお名前で、指導者を育成する「HKDスポーツアカデミー」の講師として着任しています。
スペイン流の指導者育成学校として日本で初めて解説された専門校で、スペインのメソッドを取り入れた教育方法が話題を呼んでいます。
違う形で日本サッカーに貢献していると言えますね。
◆娘もいる?
山本昌邦さんの事を調べると「娘」のキーワードが浮上します。
山本氏に娘はいないはずなのですが…
どうやら、名前が似ている元プロ野球の「山本昌」さんと情報が混同されているようですね。
山本昌さんには娘さんがいて、既に子供(昌さんから見たら孫)もいらっしゃいます。
◆J3チームの創設者の弟
山本昌邦氏には弟さんがいて、名前は山本浩義さん。
弟の浩義さんは、地元である静岡県沼津市をホームタウンとしたサッカーチーム『アスルクラロ沼津』を設立しました。
2017年2月までは運営会社の会長を務めています。
ちなみに会長が弟さんで、副会長には兄である昌邦氏が就任しています。
アスルクラロ沼津には、マイアミの奇跡の立役者でもある伊藤輝悦選手やゴン中山こと中山雅史選手も所属しています。
今後の躍進が期待されているチームです。
◆まとめ
ロシアW杯ではNHKの解説を務めている山本昌邦氏。
初戦のコロンビア戦では熱狂している中で、冷静に勝因を分析していました。
相棒ともいえる西野朗監督の手腕を信じているとも語っていた山本氏の今後のコメントにも注目していきましょう。
コメント
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