歌手やタレントとして関西で絶大な人気を博した、やしきたかじんさん。
今回は、そんなたかじんさんと時間を共有した『家族』の物語です。
◆勘当されていた実家
やしきたかじんさんは、大阪市西成区の出身。
小学校は地元の大阪市立岸里(きしのさと)小学校に通いました。
小学生のころは野球に熱中し、強豪チームに所属していました。
大阪市立成南(せいなん)中学校に進学後も野球部に所属し、主将、捕手、四番打者をつとめる中心選手として活躍します。
桃山学院高等学校でも野球部に入りますが、肘を痛めて3カ月で退部すると、新聞部に転身。
新聞記者に憧れ、朝日新聞社主催の全国新聞コンクールに入選したこともありました。
実家は裕福で、順調に成長したかに見えるたかじんさん。
しかし実は、たかじんさんは両親との折り合いが悪く、実家からは勘当されていたといいます。
たかじんさんと両親の間に、一体何があったのでしょうか。
◆実業家の父親
①半島由来の父
やしきたかじんさんの父親の名前は、権三郎(ごんざぶろう)さん。
父・権三郎さんは、1962年に朝鮮半島で生まれ、14歳の時に大阪に渡ってきました。[1]
当時の時代背景から、父親は子供たちの将来を案じ、日本人の母親とは籍を入れませんでした。
このため、たかじんさんは母親の私生児扱いとなっています。
そんな父・権三郎さんは、息子の命名を知人の易者に依頼しました。
易者は「隆仁(たかひと)」という名前を提案しますが、であったため、父・権三郎さんが、
天皇陛下の「仁(ひと)」を使うとは畏れ多い
と考え、「隆仁(たかじ)」と命名しています。
②父親との確執
父親は、パチンコ店や社員400人をかかえるステンレス会社の社長などを務めていましたが、2度倒産を経験するなど浮き沈みもありました。
父親はたかじんさんに実業家への夢を託しますが、たかじんさんの当時の夢は新聞記者。
この頃から、父親と息子との間にわだかまりが生じてきます。
高校卒業後、たかじんさんは早稲田大学の新聞学科を受験するも不合格。
仮面浪人で桃山学院大学経済学部に入学しますが、怒りの収まらない父親は自ら大学へ退学届を出し、
家を出ていけ!
と勘当を宣言しました。
◆日本人の母親
やしきたかじんさんの母親の名前は、家鋪光子(やしき・みつこ)さん。
前述のとおり、母親は日本人で、父親とは入籍していません。

「家鋪」という苗字は、母方の姓だそうです
父親と折り合いが悪かったたかじんさんは、母親との関係も悪く、「憎んでいた」と発言したことがあります。
母・光子さんは、2014年5月、胃がんにより亡くなっています。[3]
◆4人兄弟の次男
やしきたかじんさんは、男ばかり4人兄弟の次男として生まれました。
①兄
やしきたかじんさんのお兄さんの名前は、家舗秀王(やしき・ひでお)さん。
父親の跡を継いでステンレス会社の社長を務めましたが、会社は倒産してしまいました。
兄・秀王さんは、亡くなられているようです。[3]
②長弟
やしきたかじんさんの長弟の名前は、家舗良行さん。
年齢は、たかじんさんより4歳年下になります。
良行さんは、2015年2月3日に行われた「やしきたかじんを偲ぶ会」で挨拶に立ち、
(たかじんさんは)外では疎遠的なことを言うてたけど、本当は親族を大事にしてくれていた。そういったことを分かってくれたら
と、家族の結束を訴えています。
③末弟
やしきたかじんさんの末弟の名前は、家鋪渡(やしき・わたる)さん。[4]
1955年生まれなので、たかじんさんより6歳年下になります。
末弟の渡さんは、関西大学社会学部を中退。
たかじんの影響で音楽のプロを目指しますが、たかじんの歌を聞いて「自分とは格が違う」と断念しました。
1977年に父親が経営するステンレス会社に入社。
1994年、会社は倒産しますが、スポンサーが現れ『岸和田ステンレス株式会社』として再建しました。
1997年からは、同社の社長をつとめています。
◆3度の結婚と3人の妻
やしきたかじんさんは、生前に3度の結婚と2度の離婚を経験しています。
①1人目の妻
やしきたかじんさんは、龍谷大学2回生だった21歳の時に、最初の結婚をしています。
お相手は、アルバイト先のハンバーガー店の客だった女性でした。
結婚の報告のため、久しぶりに大阪の実家へ帰ったたかじんさん。
「ただいま」と玄関に入ると、応対に出た母親の背中越しに父親の声が響きました。
うちに入れるな!!
あまりの剣幕に気おされて京都へ引き返したたかじんさんは、両親の祝福が得られぬまま結婚。
昼間のアルバイトでは経済的に無理であったため、夜のスナックで歌い出します。
夜ごと酔客相手の弾き語り。
そして結婚とは名ばかりの刺激のない生活。
こんなことでよいのか…と疑問に感じたたかじんさんは、ストレートな行動に出ます。
俺、歌手にならなあかんねん。別れてくれ
いきなりそう言われて3日3晩泣き続けた新妻を残し、4日目の朝、たかじんさんは1人で東京へ旅立ちました。
わずか3カ月間の新婚生活を捨て、東京へ乗り込んだ21歳のたかじんさん。
地下鉄工事のアルバイトをしながら、プロ歌手へのきっかけをつかもうとしますが、1年間で京都へ戻ります。
なじみのスナックを飲み歩き、夜が更けた午前3時、我が家のチャイムを押しました。
おかえり…
1年間ぶりに会う妻は、優しく迎えてくれました。
再び温かい生活が始まり、すぐに子供も生まれました。
しかしたかじんさんは、その数カ月後にまた家を出ています。
今度は妻と娘を残して。
結局離婚した1人目の妻は、1988年10月5日、たかじんさんの39歳の誕生日に亡くなりました。
クモ膜下出血でした。
②2人目の妻
1993年12月25日、たかじんさんは再婚しています。
お相手は15歳年下の和服モデルの女性でした。
2人目の妻とは2006年に離婚。
たかじんさんは2007年2月に放送された『たかじんnoばぁ~』で、
独身になるって、去年知ったんや。離婚届、(勝手に出されてた事を)知らんかったんや~!
と話しています。[5]
③3人目の妻
食道癌などで闘病を続けていた2013年10月10日、やしきたかじんさんは再々婚を果たしました。
3人目の妻の名前は、さくらさん。
年齢は、たかじんさんより32歳年下になります。
百田尚樹(ひゃくた・なおき)さんの著書『殉愛』によると、2人が最初に会ったのは、2011年の12月25日。
イタリアでネイルサロンを経営していたさくらさんは、妹の出産に合わせて日本に帰国しました。
ヒルトン大阪で友人のイタリア人女性と食事をし、その後、Facebookで知り合った「家鋪隆仁」という素性不明のおじさんのパーティに参加。
12月30日、たかじんさんと2人で鉄板焼き店に行き、その日の夜、たかじんさんの自宅にてプロポーズを受けています。
結婚前からたかじんさんの闘病を支え、主治医から、
長い間医師をしてきて、これほど献身的に看病した女性を私は見たことがなく、今後も見ることはないでしょう
と言わしめたさくらさん。
しかし、『殉愛』に対しては、さくらさんサイドの一方的な取材に偏っているとして、批判の声も上がっています。
◆娘との確執…?
前述のとおり、やしきたかじんさんには、最初の妻との間に娘が1人います。
たかじんさんに捨てられた娘さんからすれば、父親に複雑な感情を持つのも無理はないでしょう。
『殉愛』では、
長女がたかじんに金銭を求め続ける一方でたかじんに冷たい態度を取り続ける
と、描写されています。
娘さんは、
これらは、事実に反する虚偽の記述である。ほかにも、身に覚えのないことが証拠なしに書かれている箇所が多数ある。
として、出版差し止めと1100万円の損害賠償などを求める訴えを起こしました。
裁判の結果、出版差し止めは認められないものの、合計7箇所について「事実に反する虚偽記述、プライバシー侵害及び名誉毀損」を認定。
365万円の賠償金支払いを命ずる判決が確定しています。
一方で、2002年6月放送のABCテレビ『おやじと、娘と、たかじんと』の中で、長女からの手紙が公開され、たかじんさんは号泣。
共演の秋野暢子(あきの・ようこ)さんが、
(娘と)年に一回会うの楽しみ?心配やんな。
と声をかけており、父娘で定期的に交流があったことを伺わせています。
◆まとめ
これまで見てきた通り、やしきたかじんさんの活躍の陰には、温かく支えてくれた『家族』の姿がありました。
今は空の上から、残された家族の幸福を見守り続けていることでしょう。
実家の家族とも、天国で再会できているといいですね。
◇脚注
LITERA 2014年9月15日 やしきたかじんが口を閉ざしていた「在日」のルーツに迫る評伝が出版
zakzak by 夕刊フジ 2014年1月11日 【たかじんno素顔】一般人としても規格外の家鋪隆仁 大学入学直後に父親から勘当 21歳で結婚も破局
サンスポ 2015年2月4日 たかじんさんの弟・良行さん「常に僕ら親族一体」
- 百田尚樹『殉愛』の真実 2015年2月発刊 著者紹介
オリコンニュース 2007年9月13日 やしきたかじん、離婚告白「280%僕が悪い・・・」

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