2021年4月4日、脚本家の橋田壽賀子さんが、急性リンパ腫のため亡くなりました。
今回は、生前の橋田さんを支えた『家族』をご紹介し、在りし日の故人を偲びたいと思います。
◆生い立ち
橋田壽賀子さんは、日本統括時代の朝鮮・京城(現在のソウル)で生まれました。
家では2人のオモニ(おばさん)を雇っていたと言いますから、裕福な家庭だったのでしょう。
しかし、小学校に上がる少し前、東京・戸越銀座で酒屋を営む母の次姉に預けられることになりました。
小学校は宮前尋常小学校(現・品川区立宮前小学校)に入学。
しかし、1学期を終えた夏休みに、ソウルに戻ることになります
転校先は、ソウルの東大門市場に近い東大門尋常小学校でした。
ここでしばらくは平穏に過ごしましたが、4年生になる直前のある日、
戦争が激しくなって教育環境が悪くなった
という理由で、今度は大阪・堺に転居します。
堺では、名門と言われていた浜寺尋常小学校に転校しました。
しかしある日、検事の娘の髪の毛をつかみ引き倒してケガをさせたことをきっかけに、英彰尋常小学校に転校。
小学校だけで4つの学校に通っているのですね
小学校も高学年になり高等女学校への進学を考える時期になると、
与謝野晶子も出た府立堺高女に行く
と猛勉強し、大阪府立堺高等女學校に見事に合格。
その後、日本女子大学文学部国文学科を卒業後、早稲田大学第二文学部国文科を中退しています。
早稲田大学在学中には、学生劇団「小羊座」に入って役者を務めました。
またこの時期、久板栄二郎氏の脚本塾に通って演劇の執筆を始めています。
◆父親
橋田壽賀子さんの父親の名前は、橋田菊一さん。
父親は、愛媛県今治の漁師の長男でしたが、家業を継がずに朝鮮に渡り、重晶石の鉱山を経営していました。
父親の思い出はあまりなく、言葉を交わした記憶もなく、
お父さんは偉い人だから、あまりしゃべらないんだ
と思っていました。
◆母親
橋田壽賀子さんの母親の名前は、菊枝さん。
母親は、徳島県藍園村(現藍住町)の農家の娘でした。
当時は珍しかったミシンの先生として袴姿で働き、今でいうキャリアウーマンだったせいか「行きそびれ」になったそうです。
両親の馴れ初めにロマンスはなく、「朝鮮にこんな男がいる」という事で、相手の顔も見ずに結婚したのが父親でした。
母親は一人っ子の橋田さんを構い、
- 帰りが遅いとすぐに学校に電話する
- 小遣いの使い道を細かく聞く
- 近所の子供たちを家に呼んで、お菓子やノートを配る
など干渉してきました。
あるいは、父親が滅多に帰宅しない寂しさを、橋田さんを構うことで紛らわせていたのかもしれません。
◆兄弟
橋田壽賀子さんの両親は、なかなか子宝に恵まれす、
養子をもらおうか
と話し合っている矢先、結婚7年目でようやく生まれた子供でした。
上にも下にも兄弟はおらず、橋田さんは一人っ子です。
◆がんで旅立った夫
橋田壽賀子さんは1966年5月10日、自身の41歳の誕生日に結婚しています。
夫は当時TBSのプロデューサーだった岩崎嘉一さん。
年齢は、
誕生日の関係で5歳あるいは4歳下
ということです。
結婚式の仲人は、同じプロデューサーの石井ふく子さんが務めました。
結婚から20年以上が経過した1988年、夫に肺腺がんが見つかります。
もしこのことを夫が知ったら自殺するのではないかと思った橋田さんは、
夫には本当のことを言わないでください。お願いします
と、医師に懇願。
医師は渋々、
では肋膜炎ということに
と答えました。
夫は入院している間、見舞客と病院のレストランに出かけて、うなぎやすしを食べ、ビールを飲むこともありました。
自分は肋膜炎なのだし、手術もしないことだし
と、将来を楽観していたのです。
退院して熱海の家で療養しているときも、畑に出て野菜や花々を育てていました。
しかし病魔は少しずつ夫の命を削っていきました。
夫のおなかに水がたまり始め、やがて足の痛みを訴えるようになります。
そんな中、橋田さんが脚本を担当した『春日局』の初回放送が、歴代大河の中で最低視聴率を記録。
落ち込む橋田さんを、
誰が元日のドラマなんか見るもんか。次から絶対上がるよ
と、励ましてくれました。
夫のさりげない心遣いに支えられて『春日局』の最終回を書き終えた9月26日。
橋田さんは夫の「死に装束」を注文します。
医師から覚悟を決めるよう言われていたのでした。
その夜、病室を後にする橋田さんに、夫は
バイバイ、またあしたね
と笑顔で手を振りました。
それが、還暦を迎えたばかりの夫が口にした、最期の言葉となりました。
◆子供
橋田壽賀子さんには、子供はいません。
90歳を超えたころからは、
私は子供がいないから…
と、終活に取り組んでいました。
『おしん』や『渡る世間は鬼ばかり』に出演した泉ピン子(いずみ・ぴんこ)さんとは、本当の母娘のような関係でした。
橋田さんの最期を看取ったのも、ピン子さんだったそうです。
◆まとめ
これまで見てきた通り、橋田壽賀子さんの活躍の陰には、温かく支えてくれた『家族』の姿がありました。
今頃は最愛の夫と、天国での再会を果たしていることでしょう。
ご冥福をお祈り申し上げます。
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