2016年5月20日、脳腫瘍と闘いながら作曲活動を続けた高校生の加藤旭(かとう・あさひ)さんが亡くなりました。
今回は、在りし日の旭さんを支えた『家族』にスポットを当て、ご紹介します。
◆父親
加藤旭さんのお父さんの名前は、加藤康裕さん。
旭さんの両親は、共に音楽は専門外でしたが、インスタントコーヒーのおまけについていた「クラシック名曲CD」が旭さんを覚醒させます。
まだ幼稚園に入る前の、旭さんの鼻歌は、モーツァルトの「ホルン協奏曲第 1 番」やビバルディの「四季より『春』」だったそうです。
◆母親
加藤旭さんのお母さんの名前は、加藤希(のぞみ)さん。
両親は「音楽は専門外」ということですが、家には希さんのピアノがあったそうなので、お母さんはピアノの経験はあったのでしょう。
ピアノが大好きで、作曲の才能を見せた旭さんでしたが、一方でアレルギーやぜんそくを発症するなど、小さい頃から身体が弱い一面がありました。
2013年10月、中学2年生になった旭さんは、頭痛を訴えるようになります。
喘息のせいかな
お母さんはそう考えましたが、授業中、痛みに耐えられなくなった旭さんは、お母さんにメールを送りました。
病院へ行く
そして、MRIに脳腫瘍がはっきり映し出されると、2週間後には摘出手術が決定します。
手術後は、お母さんの顔を判断できなくなるかもしれない
主治医から、こう言われた母・希さんは、その場で気を失ったそうです。
手術は成功しましたが、1年も経たないうちに再発し、脊髄への転移も確認されました。
それから続く長い闘病生活で、旭さんは視力を失いますが、それでも作曲を続けます。
五線譜に記せないため、メロディーをキーボードで弾き、指の動きを希さんが動画撮影して記録しました。
PCソフトを使うようになると、旭さんがパソコンとケーブルでつないだキーボードで音を取り、希さんが音の長さなど細部を整えて楽譜にしています。
病魔に襲われながらも、曲を作ることで、自分の存在を取り戻したかに見えた旭さん。
しかしある夜、お母さんが「おやすみ」と声をかけようとすると、ベッドの旭さんが右腕で顔を覆いました。
明るい世界が恋しい。光のある世界への憧れを捨てきれない。お母さんの顔だって見たい
とめどなく涙がこぼれ落ちたその時、新たなメロディーが生まれます。
旭さんは、すぐに携帯端末のアプリを使って夢中で記録し、翌朝から希さんと楽譜の入力作業に取りかかりました。
5日後、3分を超す曲の楽譜が完成します。
曲のタイトルは「A ray of light」、邦題「一筋の希望」が生まれた瞬間でした。
◆CDのきっかけは妹
加藤旭さんには妹がいて、名前は息吹さん。
旭さんは、幼少期に作った27作品を収めたCD「光のこうしん」を制作していますが、これには妹さんが関係しています。
当時、頭痛やだるさを抱えながら病院で一人過ごす時間はとにかく辛く、ドアが開いて誰かが入って来てくれるのを「今か、今か」と待っていました。
家族や友達、先生が会いにきてくれた時の嬉しさは格別で、
自分も人を喜ばせたい、何かの役に立ちたい
と考えるようになります。
それを聞いた妹・息吹さんは、こう提案してくれました。
お兄ちゃんは小さい頃作曲していたから、それを生かせばいい
CDは大きな反響があり、160通を超える感想や激励のファクス・メールが次々と寄せられます。
旭さんは家族にこう話しました。
こういうことのためにCDを出したんだ。自分の知らない人が曲を聴いてくれて、音楽でつながっていくことがうれしい
◆父・母と聴いたコンサート
2015年11月、東京・銀座のヤマハホールで、加藤旭さんが作った曲によるコンサートが開催されました。
当日、旭さんは作曲家として正装で臨み、両親とともに曲に聴き入ります。
拍手喝さいを浴びた旭さんは、次のように語りました。
拍手の音や相当響くオーケストラの音を聴いて、音楽に戻ってきた気がしました。
自分の気持ちがどん底だったところから、たくさんの先生や見舞いにきてくださった人によってここまで立ち直れたところです。
だからそれと同じように僕の曲でそうなるか分かりませんけど、少しでも元気になる人が増えてくれるといいなと思います。
◆まとめ
懸命に病気と闘った旭さんでしたが、16歳という若さで生涯を閉じました。
『船旅』という自作ピアノ曲を聴きながら、『じゃあ行くね』と自分で旅立ちを決めたような表情だったそうです。
ご冥福をお祈り申し上げます。
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