広島東洋カープに所属する「男気」、黒田博樹(くろだひろき)投手。
今回は、そんな黒田投手を育み、支えてくれた『家族』にスポットを当て、ご紹介します。
◆父親は元プロ野球・黒田一博選手
黒田博樹投手のお父さんは、かつてプロ野球で野手として活躍した、黒田一博さん。
父・一博さんは、1924年9月に長崎県で生まれています。
長崎県立佐世保商業学校を卒業後、軍役を経て、地元長崎の青木産業の軟式野球チームに入り国体で活躍しました。
その後、社会人野球の強豪である八幡製鐵所を経て、1949年に南海ホークスに入団。
ホークス入団後間も無くレギュラーに定着し、1951年からのリーグ優勝3連覇に貢献しています。
そして、高橋ユニオンズ、大映スターズに移り、1956年で現役引退。
1958年、一博さんは大阪市で、スポーツ用品を取り扱う「黒田スポーツ」を開店しました。
また、平行してボーイズリーグ「オール住之江」を設立して自ら監督に就任。
「オール住之江」では、黒田博樹投手をはじめ、川井貴志選手や田上秀則選手などのプロ野球選手が羽ばたいています。
晩年、父・一博さんは肺ガンに侵されました。
黒田投手は、メジャー挑戦を1年先送りにし、父の闘病を支えるため、足しげく入院先の広島に通います。
そんな黒田投手の思いもむなしく、2007年8月17日、帰らぬ人となりました。
82年の人生でした。
◆母親の職業は?
黒田博樹投手のお母さんの名前は、黒田靖子さん。
母・靖子さんはかつて公立高校の体育教師をつとめ、1964年の東京オリンピックでは砲丸投げの代表候補になっています。
投手としてのDNAは、母親譲りのようですね( ゜Д゜;)!
黒田投手は甲子園の名門、上宮高校を卒業しています。
しかし、上宮の練習はきびしく、夏の炎天下、ひたすら走り続ける日々。
体力的にも限界を感じ始めていたとき、チームメイトのお母さんがこっそり連れ帰り、食事を与え、風呂に入れてくれました。
そのお母さんは、自宅にも連絡を入れてくれます。
博樹くん、うちで預かって、食事と風呂を取らせて、監督に気づかれないように朝までに合宿所に帰しますから。
すると、母・靖子さんはこう返しました。
ありがとうございます。でも結構です、タクシーでかまいませんので、すぐにでも合宿所に帰して走らせてください。
黒田投手は、今でもその時の驚きを忘れられないそうです。
なんて母親だ…
祖母が亡くなったときも、葬式が終わったらすぐお母さんに、
お前はすぐに学校へ帰って走ってこい!
と言われました。
大学進学の時は、
地元である関西の大学、そこで野球を楽しみながら続けよう…
と考える黒田投手に向かって
頼むから家から出てってくれ。
と言い放ちました。
困難に立ち向かえ、というメッセージ。
結果として、関東の専修大学に進んだ黒田投手は、スカウトの目に留まる存在となったのです。
恩人ともいえる最愛のお母さんは、2002年にガンで亡くなりました。
この年、2桁勝利を挙げた黒田投手は、報道陣の前で涙を流します。
精神的にきつかったし、どうしたらええのか分からんときもあった。
両親をガンで失った黒田投手は、癌の研究や啓発を行う活動に、多額の寄付をしているそうです。
◆兄弟はいる?
黒田博樹投手には、お兄さんが一人います。
お兄さんはプロ選手ではありませんが、野球はやっていたかもしれませんね。
◆お嫁さんの名前は?
黒田博樹投手は、2001年に結婚しています。
お嫁さんの名前は、黒田雅代さん。
年齢は、黒田投手より1歳年上なので、42歳くらいでしょうか。
雅代さんは、さっぱりとして気丈な性格だそうです。
決して出しゃばることはなく、球場での観戦は年に数試合ほど。
それでいて、常に黒田投手の体調、心のささいな動きを理解してきました。
広島カープからドジャース入りした黒田投手ですが、移籍当初は言葉、文化、野球の質の違いに苦しみます。
伸びない勝ち星、慣れない中4日での登板。
そんな苦しい精神状態を変えたのは、嫁・雅代さんのひと言でした。
やるだけやって、駄目だったら一緒に広島に帰ればいいじゃない。
黒田投手は、その一言で目が覚め、気がついたのでした。
遠い異国の地で戦っているのは、自分一人ではないということに…。
◆嫁と娘はアメリカ在住?
黒田博樹投手には、2人の娘がいます。
上の娘さんは、現在13歳ということなので、下の娘さんは小学生くらいでしょうか。
思春期のお姉ちゃんは、最近あんまり会話をしてくれないのだそうです(*^_^*)
実は黒田投手、お嫁さんと娘さんとは、離れて暮らしています。
アメリカに渡る際、黒田投手はお嫁さんと2人の娘さんを連れて行き、その後ロスに一戸建てを購入しました。
その後、「男気」で日本に帰ってきた黒田投手ですが、お嫁さんたちはアメリカに残ることに。
娘の学校のこともあったでしょうが、お嫁さんたちはアメリカでの生活が合っていたのだそうです。
黒田投手も、自分の「カープ愛」のために、家族の生活環境を無理に変えることはしなかったのです。
◆まとめ
2015年シーズンから、「男気」で日本球界復帰を決めた黒田投手。
決断の際には、亡き父母のことも頭に浮かびました。
両親ならどう言ったかなといろいろ考えた。
2016年の5月には、
一生懸命、最後までやり抜く!
と両親の墓前に誓ったそうです。
黒田投手が誓ったのは、目前に迫っていた日米通算200勝でしょうか?
それとも、日本時代に一度も達成できなかった「優勝」の2文字なのでしょうか?
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