志村けんの『家族』~子供が欲しいのに結婚しない理由は?父親は事故にて…

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◆実家は東村山

①志村家のルーツ

志村けんさんは、東京都北多摩郡東村山町(現:東村山市)の出身。

もともと志村家は、甲斐の国(甲府)から流れてきた武士の家系と見ることができるそうです。

最も縁が深いとかんがえられるのは、志村又左衛門という人物。

志村又左衛門は長篠の戦いで武田軍につき、戦士した山縣昌景の首を敵が持ち帰ろうとしたのを奪い返した武将です。

その後、武田家は滅亡。

志村又左衛門は徳川に忠誠を誓い、武蔵の国に入る関門を守るように命じられたため、東村山へ来たということです。

江戸の中期、志村家は本家から7つの家に分かれ、東村山の各地でそれぞれ農業を営んできました。

ひいおじいさんは車大工をしており、物置には万力が置いてあったそうです。

②東村山音頭

志村けんさんのブレイクのきっかけといえば、東村山音頭

もともとは地元の東村山農協が制作した曲で、子供の頃から良く聴いていた歌でした。

志村けんさんの出身小学校は、東村山市立化成小学校

中学校は、東村山市立第二中学校

高校は、都立久留米高校を卒業しています。

◆笑わない父親

①父親の職業は?

志村けんさんの父親の名前は、志村憲司(しむら・けんじ)さん。

ちなみに、志村さんの芸名「けん」は、お父さんの名前から取ったものです。

父・憲司さんの職業は、小学校教諭でした。

もともと農家の8人兄弟の長男として生まれた憲司さん。

農業を手伝いながら勉強し、学校を卒業するまで成績は常にトップでした。

1934年、教員を要請する豊島師範学校に入学。

師範学校では全国優勝20回をほこる柔道部に所属し、激闘の様子が新聞に掲載されたこともあります。

1939年、父・憲司さんは師範学校を卒業し、そのまま教師の道を歩みました。

初めて赴任したのは、武蔵村山の小学校だったそうです。

②柔道5段の笑わない父

父・憲司さんは、

  • 柔道五段
  • 冗談が通じない性格
  • 礼儀やしつけにも厳しい

という方で、志村さんとは真反対の性格。

めったに笑うことはなく、志村家はいつも重苦しい雰囲気に包まれていました。

笑わない男!
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しかし、そんなお父さんもテレビのお笑い番組で漫才や落語を観ると、

声を出して笑っていた…

ということで、嫌な日常を忘れることが出来ました。

志村さんは、そんな体験から、お笑い芸人の世界に憧れを抱くようになります。

中学生の頃には、本格的にお笑いを仕事とすることを決心していたそうです。

③父親は事故にて…

志村さんが中学生だった頃、父・憲司さんは教頭となり、校長への昇進を目指して勉強に励む毎日を送りました。

志村さんは、そんな父を見て、

つまらない人生だな…

と思っていました。

そんな折、父・憲司さんに事件が起こります。

自宅の前で、バイクで事故を起こしてしまったのです。

その時は命に別状はなく、診断は全身打撲と骨折だけでした。

しかし事故から3年後、志村さんが夕飯のためお父さんを呼びに行ったところ、

あの…どちら様ですか?

と尋ねられてしまいます。

この頃、父・憲司さんは、脳内出血による記憶喪失となっており、物事の判断ができなくなっていたのです。

志村さんはお爺さんのコントをやることがありますが、

この時期の父親をモデルにしたもの

と先述の『変なおじさん』で明言しています。

結局、憲司さんは47歳の時に学校を休職し、その後は町を徘徊するなどの行動を取るようになっていきました。

そして、志村さんが正式にドリフのメンバーになる前の年である1973年に、54歳で亡くなりました。

志村さんは父の訃報を受けて駆け付けましたが、

(亡くなった父の)顔は見れなかった…

と振り返っています。

◆芸達者な母親

①父と母の馴れ初めは?

志村けんさんの母親の名前は、志村和子さん。

母・和子さんも東村山の出身で、実家の小山家は、この地区の名主を200年以上にわたって勤めていた家系です。

母・和子さんは、そんな小山家の分家に8人兄弟の四女として生まれました。

父・憲司さんとの出会いは、憲司さんの妹と、和子さんの兄との結婚式でした。

互いのきょうだい同士で結婚してるんですね。

昔は珍しいことではなかったそうです。

②芸達者な母親

母・和子さんは、カタい父親とは対象的に、踊りや芸事が好きな方でした。

東村山にある正福寺地蔵堂で、境内で年に1度踊られる「浦安の舞」というものがあります。

その初代踊り子の名前が「小山和子」さんで、後の志村和子さんです。

志村さんの芸達者は、間違いなくお母さんの性格を受け継いだのでしょう。

母・和子さんは家の前に来た見知らぬファンを家に招き、お茶を出してもてなしました。

その行動は、志村さんが日本屈指のコメディアンになっても変わらなかったといいます。

③母の遺品

また、母・和子さんは「志村けんの一番のファン」であることを公言し、『バカ殿』のコントでは志村さんと共演したこともありました。

そんな最愛の母は、2015年11月23日、96歳で亡くなっています。

母の死後、志村さんの知らない遺品が見つかりました。

それは手作りのスクラップブックで、志村さんのデビュー当初からの膨大な量の記事が切り抜かれていました。

志村さんは母の遺品について、

あんなに分厚くあるとは知らなかった…

と話しています。

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