ロサンゼルスオリンピックの金メダリストで、日本体操協会の副会長を務める、具志堅幸司さん。
今回は、そんな具志堅さんを取り巻く『家族』にスポットを当て、ご紹介します。
【本人プロフィール】
名前:具志堅幸司(ぐしけん・こうじ)
生年月日:1956年11月20日(61歳)
出身:大阪市大正区
◆息子さんも体操選手?
具志堅幸司さんを調べると、「息子」のキーワードが浮上します。
具志堅さんに息子さんがいても何ら不思議ではありませんが、息子さんの詳細は明らかではありません。
父親が偉大な金メダリストなので、息子さんがいたら、体操をやっている可能性は高いでしょう。
◆引退後に妻と結婚?
具志堅幸司さんの妻についても多くは語られていませんが、沖縄タイムスのインタビューに次のくだりがありました。
“食事はバランスが大事です。選手時代は肉より魚が多かった。今は妻が作ってくれたものを食べますが、野菜が多い。それを腹八分食べる”
この文脈から察するに、選手時代は独身で、現役引退後に結婚しているような気がします。
具志堅さんは1985年に引退しているので、仮にこの年に結婚して、翌年、息子さんが生まれたとすると、息子さんは今年(2018年)で32歳になりますね。
◆実家は沖縄?
「具志堅」という名字は沖縄のイメージが強いですね。
しかし、具志堅幸司さんは大阪生まれの大阪育ちです。
幼少期を過ごした当時の大阪市大正区は自然豊かで、トンボやバッタ、メダカを取ったりして、真っ暗になるまで遊んでいました。
やんちゃで無謀なところがあり、地元の平尾小学校2年生の時には車から振り落とされ、頭蓋骨骨折で半年間入院したそうです(^_^;)
体操を始めたのは、小学校6年生の時にメキシコオリンピックをテレビで見て、加藤澤男選手の演技に憧れたのがきっかけ。
“日本は強かったし、加藤選手がカッコよかった。母親に体操をやりたいと懇願した”
具志堅少年は大正中央中学校に入ると、すぐに体操部に入部します。
◆中学・高校時代
具志堅幸司さんの中学校時代は、週3回は中学校で練習して、あとの3日は地元の高校体操部に出げいこに行きました。
全中(全国中学校体操競技選手権大会)に出場することはなく、ブロック大会の個人総合で準優勝したのが最高成績でした。
高校は、
“大阪で一番体操の強い高校へ行きたい”
と進んだのが、名門・清風高校。
清風高校体操部は、池谷幸雄さんや、西川大輔さんが所属したことで有名ですね。
強豪校だけに練習量が多く、毎日放課後の3時から夜8時までみっちり練習で、夏休みは体育館に寝袋持ち込んで合宿でした。
具志堅さんは、練習を休みたいとは思ったことはありましたが、辞めたいと思ったことは一度もなかったそうです。
練習の甲斐あって、高校2年のインターハイでは個人総合で4位、団体で2位。
3年のときのインターハイでは、団体、個人とも優勝を果たしています。
◆大学時代
具志堅幸司さんは、
“オリンピックや日の丸を頭に描いていたので、名門の日体大しか頭になかった”
ということで、日体大に進学。
大学2年生までは順風満帆の競技生活でしたが、3年生のとき、吊り輪の練習中に着地に失敗し、3ヶ月間入院しました。
4年生でも、床運動の練習中に左アキレス腱を断裂して、再び3ヶ月入院。
“もう体操はやめよう、自分はオリンピックとは縁のない選手か”
と涙が止まらなかったという具志堅さん。
そんなとき、体操の仲間や恩師から励ましの声が届き、「もう1回挑戦しよう」という気持ちになったそうです。
実はこの時、偶然同時期にアキレス腱を切ったのが、当時後輩だった森末慎二さん。
“一緒の病室はヤダって思っていたのに、病院側が妙な気を利かせて隣のベットにしてしまった”
ということで、同じ病室に入院することになります。
寝ていたい森末さんの横で、具志堅さんは鉄アレイやチューブを持ち出してトレーニング。
挙句の果てには、
“僕にも器具を渡すもんだから、泣く泣くやらざるを得なくなって…”
ということで森末さんもトレーニングに加わり、退院したら上半身だけで8キロ増えていたそうです。
おかげで十字懸垂を軽々と出来るようになり、結局は具志堅さんに感謝していました。
◆両親と兄弟
具志堅幸司さんは大阪出身ですが、父親は沖縄県名護市、母親は沖縄県石川(現うるま)市の出身だそうです。
やはりルーツは沖縄にあったのですね。
両親は、「勉強しなさい」と言う事はありませんでしたが、
“他人に迷惑かけてはいけない”
ということは口を酸っぱくして言われました。
ちなみに具志堅さんは、4人兄妹の末っ子だそうです。
◆まとめ
これまで見てきたとおり、具志堅幸司さんの活躍の陰には、温かく支えてくれた『家族』の姿がありました。
これからも家族の応援を胸に、具志堅さんの挑戦は続いていきます(^o^)丿
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