◆実家は北海道下川町
葛西紀明選手は、北海道上川郡下川町の生まれ。
下川町立下川小学校3年の時から競技を始め、下川中学校時代は北海道大会を3連覇し「天才少年」と言われました。
中学3年の時に行われた『宮様スキー大会』ではテストジャンパーを務めますが、なんと大人の優勝者の記録を上回ってしまうという「事件」を起こしています(^_^;)
東海大四高(現在の東海大札幌高)1年で世界選手権に初出場し、日本人男子の最年少出場記録(16歳8ヶ月)を樹立。
W杯初出場(16歳6ヶ月)、初優勝(19歳9ヶ月)と、次々と当時の最年少記録を塗り替えて行きました。
オリンピックは、1992年のアルベールビルから2018年の平昌で8大会連続出場。
1994年のリレハンメル五輪で団体銀、41歳で迎えたソチ五輪では個人で初の銀メダルを獲得。
“レジェンド”の異名は、その圧倒的な実績から名付けられたのでした。
◆父親との確執
葛西紀明選手の父親の名前は、葛西利紀さん。[3]
1942年頃の生まれになります。
実は、葛西選手の幼少期は実家が貧しかったそうですが、その理由は父・利紀さんが病気を理由に働かなかったことでした。
父親にかわって母親が働き家計を支えましたが、それでもやっていけず、近所からお金や米までも借りていたのだとか…
そんな父親に対し、葛西選手が複雑な思いを持っていたのは致し方ないことでしょう。
しかし1997年、母が亡くなると、それまで疎遠だった父親との交流も少しずつ回復していきます。
思えば、競技を始めたときから高校入学で実家を離れるまで、凍えるような寒さのなか、ジャンプ台の整備をし、ずっと練習に付き合ってくれたのも父・利紀さんでした。
現在、利紀さんは、北海道名寄(なよろ)市のアパートで一人暮らしをしています。
ソチ五輪のとき、葛西選手は父親にパソコンをプレゼントしています。
親父にも俺が頑張っているところをリアルタイム(衛星放送や動画サイト)で見てほしいんだ!
という思いの表れでした。
◆最愛の母の死…
葛西紀明選手の母親の名前は、幸子さん。[3]
今の姿からは信じられませんが、葛西選手は幼少期、体が弱く、手のかかる子供だったそうです。
そのせいか、母と息子の関係は強く、お母さんは葛西少年を大切に育て、葛西選手もお母さんが大好きでした。
中学卒業後、葛西選手は実家を出て札幌の高校に進学しますが、葛西選手が札幌に行くときは、幸子さんは列車の外で手を振って別れを惜しみました。
そんな母子に、運命の悲劇が襲いかかります。
長野五輪の前年、実家が放火に遭い、母・幸子さんが大やけど負ったのです。
皮膚移植を繰り返しましたが、結局、11カ月後に46歳の若さで亡くなりました。
母さんに長野五輪を見せてあげたかったのに…
葛西選手は憔悴し、スキーどころではなくなります。
精神まで不安定になってしまった葛西選手は、けがも重なり、長野五輪では団体戦のメンバーから外れてしまいました。
そんな葛西選手が復活できたのは、入院中の母が送ってくれた手紙。
いまこの時を頑張れ。絶対におまえは世界一になれる。
お前がどん底から這い上がってくるのを楽しみに待っているよ
この手紙を肌身離さず持ち歩いていた葛西選手。
しかし、銀メダルに輝いたソチ五輪では、手紙を持参しませんでした。
強い自分を母に見せたかった
天国のお母さんの目には、成長した息子の姿が焼き付いていることでしょう。
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