ジャイアンツのエースで、侍ジャパンでも活躍した、菅野智之投手。
今回は、菅野投手を育み、支え続ける『家族』にスポットを当てご紹介します。
生年月日:1989年〈平成元年〉10月11日
身長体重:186cm/92kg
血液型 :A型
出身地 :神奈川県相模原市
◆伯父はレジェンド・原辰徳
菅野智之投手の伯父は、ジャイアンツ監督の原辰徳(はら・たつのり)さんです。
原監督は、1958年7月22日に福岡県大牟田市で生まれました。
1966年に神奈川県相模原市に転居し、1974年には父親が監督を務める東海大相模高校へ進学。
1年生から三塁手のレギュラーとして活躍し、夏の甲子園に3年連続で出場するなど活躍しました。
各地で原フィーバーを巻き起こします!
その後、東海大学に進むと、首都大学リーグで3度の最高殊勲選手、7度のベストナイン選出、打撃三冠王を2度達成。
満を持して読売ジャイアンツに入団し、記録にも記憶にも残る活躍を、球史に刻んでいます。
1995年10月8日に行われた引退試合では、
巨人軍の4番打者には何人も侵すことが出来ない聖域がある。今日、私の夢は終わります。しかし私の夢には続きがあります
との言葉を残しました。
菅野投手が野球を始めたのも、小学校に上がる直前に、原監督の引退試合を観戦したことがきっかけとなっています。
◆祖父は名将・原貢
菅野智之投手の母方の祖父は、東海大相模などの監督を歴任した名将・原貢(はら・みつぐ)さんです。
祖父・貢さんは、1936年3月30日生まれで佐賀県神埼郡三田川町の出身。
鳥栖工業高等学校を卒業し、立命館大学は中退しますが、ノンプロの東洋高圧大牟田(現・三井化学)で活躍しました。
現役引退後は、福岡県立三池工業高等学校の野球部監督に就任。
無名校を初出場にして高校野球全国大会優勝へと導き、三池工フィーバーを巻き起こします。
この戦いぶりに感銘を受けた東海大学の総長・松前重義(まつまえ・しげよし)氏の招きで1966年に東海大学付属相模高等学校の野球部監督に就任。
東海大相模の名を全国に轟かせ、神奈川高校野球界の勢力図を塗り替える存在となりました。
実は、菅野智之さんの投手としての才能を最初に見抜いたのも、祖父・貢さんでした。
貢さんは、こう語っています。
あの子は子供の頃はバッティングが好きで、内野ばかりをやっていた。
でも、ひざの関節と股関節が固かったから、内野手には向かなかったんですよ。
その代わり手足が長くて体型はピッチャー向き。
だから「お前さんは投手しかできないよ。一生懸命、ピッチャーの練習をしなさい」って言って、投手に専念させたんです。
投手・菅野智之は、祖父・貢さんによって形作られたのでした。
2014年5月29日、原貢さんは、心不全で亡くなっています。
◆父親も東海大相模のエース
菅野智之投手の父親の名前は、菅野隆志(すがの・たかし)さん。
父・隆志さんは、1962年9月25日生まれです。
お父さんは、息子と同様、東海大相模高でエースを務め、東京六大学の法政大学野球部に進みました。
しかし、大学では腰を痛め、登板なしに終わってしまい、卒業後は大手の不動産会社へ就職。
現在は独立して、不動産業を営んでいます。
隆志さんの野球の指導は厳しく、その厳しさは『巨人の星』の星一徹(ほし・いってつ)レベル!
100本ノックを命じたり、毎朝公園を10周走らせたり、牛乳は毎日1リットル、ご飯は毎食大盛2杯がノルマとなっていました。
菅野投手は食事の時間は嫌いだったそうです…
智之さんは高校1年の時、右肩を故障して半年間、投球ができず、「やめたい…」と漏らしたことがあります。
この時、お父さんは「大丈夫か?」などと言うはずもなく、
お前はそこまでの選手だったのか!?勝手にしろ!やめちまえ!
と突き放しました(^^;)
次の日、なぜか肩の痛みが消えたのだそうです…
隆志さんは、ただ厳しいだけではありません。
菅野投手が、毎朝5時から近所の松蔭公園で行う自主トレにつきあい、終わってから仕事に出掛ける毎日でした。
また、故障の怖さを知る隆志さんは、ウエイトトレーニングやランニングなどの練習メニューを考案して、菅野投手を支えたのでした。
コメント
姉はいるけれど義理の兄はいるだろうか
コメントありがとうございます。
原家の血を引く活発な女性ですから、
すでにご主人も手中におさめているかもしれません。