お笑いBIG3の一角で、映画監督としても名高い、ビートたけしさん。
今回は、そんなたけしさんを取り巻く『家族』にスポットを当て、ご紹介します。
本名:北野武(きたの・たけし)
生年月日:1947年1月18日
血液型:O型
身長:168cm
◆実家は下町・職人街
ビートたけしさんの実家は、東京都足立区島根町。
兄の大さんの著書によると、
東京都足立区の小さな木造の家で、弟はこの世に生を享けました。名前は「武」
と記されています。
もっとも、たけしさん自身は、
生まれたのは浅草で、すぐ移って、物心ついた時には足立区にいたんです
と語っているので、多少、話が合いませんが、まあ、誤差の範囲でしょう。
島根町という所は、職人が多く集まった場所で、下町の中の下町。
そんな地で育つ中で「ぶっきらぼうだけど心は温かい」という、たけしさんのパーソナリティは確立されていきました。
◆父「菊次郎」さん
①祖母「うし」さんと父「菊次郎」さん
ビートたけしさんの父親の名前は、北野菊次郎(きたの・きくじろう)さん。
1899年生まれなので、たけしさんは菊次郎さんが48歳の時の子供なのですね。
もともとは正端(しょうずい)菊次郎という名前でしたが、
北野家を残したい
という祖母「うし」さんの想いから、北野家へ養子に入っています。
実は菊次郎さんは、「うし」さんの甥っ子。
菊次郎さんの父親は漆塗りの職人で、日本橋にも店を出していましたが、放蕩でつぶしたあげく急死してしまいます。
このあと母の再婚相手から疎まれた菊次郎さんは、そのまま奉公に出され、見様見真似で父と同じ漆塗り職人となっていました。
生き別れになっていた「うし」さんと菊次郎さんは、浅草で偶然に再会。
そして、「うし」さんが勧めるままに、菊次郎さんと「さき」さんは結婚することになるのです。
②父親の職業は塗装職人
ビートたけしさんの父・菊次郎さんが塗装職人であったことは、ドラマなどを通じて有名な話。
しかし元々は日暮里で「北野帽子店」というモダンな店を経営していた時期もあったそうです。
商売は繁盛し、そこそこ良い暮らしをしていましたが、菊次郎さんの人の良さが災いし、店は倒産。
夜逃げして足立区に移り住み、父親同様、漆職人として再出発します。
弓を塗ったりしていましたが、こちらも需要がなくなってきたため、
刷毛が使えるから
という理由で塗装職人へ転身。
いわゆる転職組であったため、職人仲間からは「トーシロー(素人)」などと言われ、辛い思いもされたそうです。
しかし、戦後の復興期で需要があったのと、仕事にかけては真面目だったため、月に10軒くらいは新築のペンキの仕事がありました。
そんなお父さんの唯一の楽しみは「お酒」。
仕事が終わると必ず飲みに行くのですが、行き先は毎日判で押したように決まっていました。
棟梁からお金が出る日には、お母さんはたけしさんに、菊次郎さんを探しに行くように命じます。
菊次郎さんを見つけるのは簡単でした
後年、父・菊次郎さんは脳梗塞で倒れ、8年後の1979年9月12日に亡くなっています。
家族交代での介護生活は負担が重かったため、
まぁ、こんなに悲しみのない葬式はなかった
と、たけしさんは正直な気持ちを打ち明けていました。
◆母「さき」さん
①母「さき」さん
ビートたけしさんの母親の名前は、北野さきさん。
1904年生まれなので、たけしさんは、さきさんが43歳の時の子供ということになります。
母・さきさんは、実は再婚だったのだとか。
最初の旦那さんの名前は、徳次郎さん。
徳次郎さんは祖母「うし」さんの息子で、明治大学を出てセメント会社に勤めるサラリーマンだったといいます。
祖母「うし」さんの息子なら、「さき」さんの兄弟になるのでは…?
しかし、この段階での家系図はこんな感じです。
そして徳次郎さんは挙式の直前、盲腸炎で急死してしまいました。
北野家の存続に危機感を覚えた「うし」さんは、1922年「さき」さんを養女に迎えます。
さらに1926年、甥っ子の菊次郎さんを養子に迎え、「さき」さんと結婚させたのでした。
祖母「うし」さんと「たけし」さんは、父・菊次郎さんを通じて血縁関係があるのですね。
②教育熱心な母
ビートたけしさんの母「さき」さんは、
貧乏は教育で断つ
というのが信条で、躾と教育に熱心な方でした。
「さき」さんは厳しい経済状態の中、昼はヨイトマケ(日雇いの土木労働)をやって、夜はブリキのおもちゃを作って、教育費を捻出。
その甲斐あって、たけしさんも明治大学工学部に現役合格します。
しかし大学に馴染めず2年で中退。
「さき」さんは泣いて怒り、
出て行くんなら出て行け 大学までやってやったのに お前なんか子どもじゃない 絶対帰って来るな!
と勘当を言い渡されてしまいました。
しかし「さき」さんが本当に凄いのはここから。
なんと、大学を除籍になるまでの6年間、学費を払い続けていたのです。
「いつでも戻れるように」という親心なのでしょう。
さらに、家を出て転がり込んだアパートの家賃を払いきれなくなった「たけし」さん。
半年間も家賃を滞納しているのに督促されないのを不思議に思っていましたが、これも知らないうちに「さき」さんが負担していたのでした。
見かねた大家さんに、
親の恩を忘れるな!
と説教されて、たけしさんは初めてその事に気がついたのでした。
③母の伝説の数々
ビートたけしさんが芸人として成功すると、「さき」さんは
“温泉に行く“ “孫に自転車を買ってやる”
などと、何かと理由をつけてお金を要求するようになりました。
1986年12月、たけしさんが「フライデー襲撃事件」を起こすと、
あんなどうしようもないのは、死刑にでもしてください!
と冷たく突き放し、メディアを驚かせます。
しかし、母の愛が途切れた訳ではありませんでした。
1994年8月、たけしさんは交通事故で顔面麻痺などの大ケガをし、芸能生命の危機に直面します。
すると「さき」さんは「たけし」さんの前に現れ、
こういうことになると思ってな。お前は金遣いが荒いからその金は全部とってあるから、これであとの人生暮らせ
と言って、通帳とはんこを置いていったのでした。
数々の伝説を作った「さき」さんは、1988年に自らの半生をつづった著書を刊行しています。
◆長兄は東大出身?
ビートたけしさんは、5人兄弟の末っ子に当たります。
長兄の名前は、北野重一さん。
年齢はたけしさんより18歳年上だったそうです。
たけしさんのお兄さんは「東大」出身だという噂がありましたが、長兄・重一さんは東京工業専門学校(千葉大学工学部の前身)を卒業。
エンジニアとして活躍し、宇野製作所の取締役も務めましたが、2012年に亡くなっています。
◆姉はEXILEファン
ビートたけしさんにはお姉さんがいて、名前は中山安子さん。
1936年10月27日生まれなので、たけしさんより11歳年上になります。
名門の東京都立上野高等学校を卒業していますが、教育熱心な「さき」さんも
女は勉強しなくていい
という考えであったため、大学進学はせず、結婚を機に軽井沢でペンションを経営しています。
姉・安子さんはEXILEの大ファンで、たけしさんに
EXILEにコネがないか?
と迫ってきたこともありました。
長らくメディアに登場することはありませんでしたが、2016年12月放送のNHK『ファミリーヒストリー』でテレビ初登場。
2018年9月には『FNS27時間テレビ』に登場し、母「さき」さんが作っていたおにぎりを安子さんが再現していました。
◆夭逝した次兄
ビートたけしさんの2番目のお兄さんは、北野勝さん。
しかし、次兄・勝さんは、たけしさんが生まれる前に亡くなっています。
◆三兄・北野大さん
①北野大さんは東大出身なのか?
ビートたけしさんの三番目のお兄さんは、北野大(きたの・まさる)さん。
1942年5月29日生まれなので、たけしさんより5歳年上になります。
三兄・大さんは、テレビ出演も多いため、たけしさんの家族では一番有名ですね。
大さんは東京都立上野高等学校を経て、明治大学工学部工業化学科を卒業しています。
英語を学びたくて、千葉大学の文理学部英文科にも合格していましたが、母「さき」さんの命で明大工学部に進みました。
これで、たけしさんのお兄さんが「東大」という噂は、完全に「ガセ」という事になります。
しかし、たけしさんは後年、
うちの兄貴(北野大氏)なんて東大に入れる語学力を持ってたのに、泣く泣く明治の工学部化学科へ行ったんだよ
と語っているので、東大の実力はあったのでしょうね。
②現在の北野大さん
北野大さんは、明治大学を卒業後、大正製薬に入社。
殺虫剤部門に従事しましたが、学者への道を目指して退職し、東京都立大学大学院工学研究科工業化学専攻修士課程に入学しました。
1972年に博士課程を修了しています。
1987年からタレント活動を開始し、1988年からはTBS『クイズダービー』で、篠沢秀夫(しのざわ・ひでお)教授の後釜として活躍しました。
1994年から淑徳大学教授、2006年から明治大学理工学部の専任教授、2017年4月からは秋草学園(あきくさがくえん)短期大学の学長を務めています。
現在もTBSの『ひるおび!』などにも出演するほか、著書も多数出されています。
◆元妻・幹子さん
①元妻は元漫才師
ビートたけしさんの元奥様の名前は、北野幹子(きたの みきこ)さん。
1951年生まれなので、たけしさんより4歳年下になります。
幹子さんは元々女流漫才師で、「司ミキ」「渚ミキ」「内海ミキ」の名前で活動しました。
たけしさんとの馴れ初めは、アシスタントを務めていた『大正テレビ寄席』で共演した事。
知り合ってすぐに同棲し、2人の子供が生まれた後、1983年に正式に入籍しました。
ちなみに、たけしさんは、
と話しています(^_^;)
②売れない時代を支えた妻
ビートたけしさんを売れない時代から支え続けた幹子さん。
お金が足りない時には、近所のスナックでアルバイトをしたこともありました。
しかし、「家に帰ったことは4回しかない」とうそぶくたけしさんは、芸人を地で行くタイプです。
2017年にも、
と豪語。
なぜ帰らないのか?という問いには、
と、たけし節を披露していました。
こういう事情を察してか、姑である「さき」さんは、100%嫁の幹子さんの味方だったそうです。
③妻・幹子さんと離婚
そうは言っても収入管理を全て任せるなど、信頼関係を感じさせていた夫婦関係ですが、2015年頃から状況が変化します。
たけしさんは18歳年下のビジネスパートナーの女性と、新事務所「T.Nゴン」を設立。
2017年春からはたけしさんのギャラも新事務所で管理し、2018年3月にはたけしさんが「オフィス北野」から独立し、大きな話題となりました。
そして、2019年に離婚成立。
たけしさんは、
離婚するのに40年かかったよ
と豪語し、数百億円といわれた財産はすべて幹子さんへ渡しました。
たけしさんに残ったのは、世田谷の自宅だけのようです。
長年連れ添った妻との離婚を、天国の母や子供たちはどう感じているのでしょうか?
◆現在の妻
ビートたけしさんは、2020年2月8日に再婚を発表しました。
新しい奥さんは18歳年下で、たけしさんのビジネスパートナーに当たる女性です。
世界のキタノを手中に収めたかに見える女性に対し、
まるでリアル後妻業だ
と語る人もいるそうです。
一方、元妻の幹子さんは、
だから残りの人生、彼にも健康で、幸せになってほしいですね……。これからも元気で仕事をしてくださいって。願いはそれだけ
と話していました。
◆愛息・北野篤さん
ビートたけしさんには2人の子供がいます。
第1子は長男の北野篤さんで、1981年3月生まれになります。
篤さんは、CDショップのバイヤーを経て、2010年に博報堂のクリエイティブ・エージェンシー「博報堂ケトル」に入社。
公式サイトには
キャッチコピーからプロモーションまで常に『くだらないけど面白い』を大事にしている
と紹介されています。
2012年12月にたけしさんが手がけた絵本『ほしのはなし』では、篤さんが編集・構成を担当しており、ひそかに“親子共演”を果たしました。
2018年3月、はるな愛さんがリリースしたミニアルバムのMVとジャケット撮影の総合演出も、篤さんが担当しています。
◆愛娘・北野井子さん
ビートたけしさんには娘さんもいて、名前は北野井子(きたの・しょうこ)さん。
1982年10月5日生まれになります。
井子さんは、1997年に映画『HANA-BI』に出演して芸能界デビュー。
1998年には、YOSHIKIさんのプロデュース・楽曲提供により歌手デビューしました。
デビュー曲『Begin』では13万枚のスマッシュヒットとなりましたが、その後目立った動きはなく1999年に芸能活動を休業しています。
2004年に調理師の男性と結婚し、2005年3月9日に女児を出産しましたが、その後離婚。
現在、井子さんの長女は、たけしさんと養子縁組をしています。
◆もう一人娘が?
ビートたけしさんには、もう一人娘がいます。
フライデー襲撃事件の発端となった交際相手が出産した女の子です。
たけしさんはこの娘を、認知しているとも、認知していないとも言われています。
◆まとめ
1999年8月、ビートたけしさんの最愛の母「さき」さんが、95歳で天国に旅立ちました。
通夜の終了後、取材に応じたたけしさんは、
俺の見ていた母親はいつも働いていて、いつも泣いていた親だったからさ…。感謝してる…
と絞り出すように話して、号泣。
降りしきる雨と背後に鳴り響く雷は、たけしさんの心情そのものだったに違いありません。
「さき」さんは今でも天国から、たけしさんの活躍を見守り続けています:。*゜+ ゚・。*
◇編集後記
ビートたけしさんが愛用する腕時計を見つけました。
TBS『新・情報7daysニュースキャスター』に出演したときの画像です。
これはパテック・フィリップのグランドコンプリケーションですね。
世界最高峰の腕時計メーカーである、パテック・フィリップ。
その中でも頂点に位置するモデルが、グランドコンプリケーションです。
優雅で凛としたケース形状、細部まで美しく仕上げられた素材感、搭載されたムーブメントなど、
すべてが高い次元で調和されています。
金額も、世界のキタノにふさわしいプライスですね(^_-)
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