天皇皇后両陛下の長女、愛子さま。
ニックネームは「トッシー」です!
今回は、そんな愛子さまを取り巻く『家族』の物語です。
称号:敬宮(としのみや)
生年月日:2001年〈平成13年〉12月1日
身位:内親王
お印:ゴヨウツツジ
◆生い立ち
愛子さまは、皇居の東端にある宮内庁病院で生まれました。
幼稚園は、学習院幼稚園へ入園。
幼稚園時代は、遠足や運動会に参加する姿が、メディアを通じて紹介されています。
小学校は、学習院初等科へ入学。
初等科では、2年生の2月下旬から、欠席が目立つようになっていきました。
そして当時の東宮大夫が、
3月上旬に発生した初等科での児童同士のトラブルから体調不良となり、学校を欠席した
と発表。
「愛子内親王不登校事件」として、大きな騒動となります。
その後も不規則な登校は続きましたが、初等科4年生の秋には、平常な状態に戻りました。
中学校は、学習院女子中等科へ進学。
学校行事である「球技会」ではソフトボールに出場し、守備ではショートを任されます。
攻撃ではヒットを重ね、打点も記録しました。
母は「スラッガー(強打者)・マサコ」と呼ばれてました!
高校は、学習院女子高等科へ進学。
高校2年次には、高校の海外研修プログラムにより、ロンドン郊外のイートン校のサマースクールに参加します。
文化祭『八重桜祭』では、同級生数人とダンスチーム『BLOOM』を結成し、洋楽やJポップに合わせたチアダンスを披露しました。
大学は、学習院大学文学部の日本語日本文学科へ進学しています。
ちなみにお父上も、学習院大学文学部の史学科出身となります
◆家族構成
愛子さまの家族構成は、お父さま、お母さま、愛子さまの3人家族となります。
自身は独身であり、自らの家族はこれから築くことになります。
◆父・徳仁天皇陛下
愛子さまの御父上は、徳仁(なるひと)天皇陛下。
1960年〈昭和35年〉2月23日生まれになります。
徳仁さまは、学習院幼稚園を卒園後、
- 学習院初等科
- 学習院中等科
- 学習院高等科
をそれぞれ卒業しました。
大学は、学習院大学文学部の史学科へ進学。
音楽部に所属しヴィオラを担当しました
大学卒業後は、学習院大学大学院人文科学研究科の博士前期課程を修了しています。
1989年1月7日、祖父・昭和天皇の崩御を受け、皇位継承順位第1位の皇太子となりました。
そして、2019年5月1日、父・明仁天皇が退位したことに伴い、第126代天皇に即位されています。
◆母・皇后雅子さま
①生い立ち
愛子さまのお母さまは、雅子(まさこ)皇后陛下。
1963年〈昭和38年〉12月9日生まれなので、天皇陛下より3歳(4学年)年下になります。
雅子さまは、東京で生まれましたが、幼くしてモスクワに渡り、その後ニューヨークへ転居。
ニューヨーク市立第81パブリックスクール付属キンダガーデン(幼稚園)へ入園しました。
そのままニューヨーク市立第81パブリックスクール(小学校)へ進学した後に帰国し、
- 目黒区立原町小学校
- 新宿区立富久小学校
- 田園調布雙葉小学校
と、転校を繰り返しています。
中学校は、田園調布雙葉中学校へ進学。
毎晩『プロ野球ニュース』を見てから就寝していた
というほど野球好きだった雅子さまは、学校に掛け合ってソフトボール部を結成しました。[1]
強肩のサードとしてチームを引っ張り、世田谷区の大会で優勝を果たします。
高校は、田園調布雙葉高等学校へ進学。
しかし、御父上の都合で渡米することになり、マサチューセッツ州立ベルモント・ハイスクールへ転校しました。
アメリカでは、合衆国政府が上位5%の生徒に贈る『National Honor Society』を受賞するなど、成績優秀者として知られる存在でした。
②外交官への道
大学は、ハーバード大学、イェール大学、プリンストン大学など名門校に合格しましたが、
日本で就職するには名前の通った大学がいい
と考え、ハーバード大学経済学部に入学。
大学では日本文化クラブ(ジャパニーズ・カルチャー・ソサエティー)を自ら創立し、
- 知日派の研究者たちを招待しての講演会
- 浮世絵や能の紹介
- 黒澤明監督作品などの日本映画上映
- 習字・折り紙の紹介
- 日本食の試食会
など、日本文化を紹介する活動を行いました。
同クラブでは、1年次に書記、2年次で副会長、3年次には会長を務めています。
雅子さまは、成績優秀な学生に贈られる「Magna Cum Laude(優等賞)」を受賞して、ハーバード大学を卒業。
父親の小和田恆(おわだ・ひさし)さんから、
アメリカに残って法律の勉強をしたらどうか?
と、勧められますが、
米国に残ったら根無し草になってしまう…
と考え、日本に帰国して、東京大学法学部の3年生に編入しました。
同じ年、外務公務員上級採用I種試験(外交官試験)に合格し、外交官としての道を歩き始めます。
③そして結婚へ
天皇徳仁さまと雅子さまの出会いも、ちょうどこの頃でした。
東宮御所で催された、スペイン国王の娘エレナ王女の歓迎会に、父親の恆さんと雅子さまが招待されたのです。
(外交官試験に)合格してよかったですね
と、珍しく積極的に声をかける徳仁さまに対し、
はい、ありがとうございます
と、ていねいに会釈した雅子さま。
この時、徳仁さまの心に、雅子さまの印象が強く残りました。
お2人はその後も、日英協会主催のパーティーや赤坂御所での夕食会で顔を合わせ、自然な形での交流が続きます。
しかし、雅子さんの母方の祖父が、水俣病の原因企業の元会長であったことが、お2人の関係に暗い影を落としました。
さらに、雅子さまが外務省の研修で英国に留学したことで、お2人の交流は途絶えた形となります。
しかし徳仁さまは、関係者が推すお妃候補に興味を示されることはなく、
やはり雅子さんでなくては…
と気持ちを強くしました。
そして、千葉県市川市の宮内庁新浜鴨場で、徳仁さまは、
私と結婚していただけますか?
と、ストレートにプロポーズ。
即答が出来なかった雅子さまでしたが、約2ヶ月後に、
私がもし殿下のお力になれるのであれば、謹んでお受けいたします
と、プロポーズを受諾したのでした。
出会いから6年越しの徳仁さまの思いが、ついに成就した瞬間でした。
◆結婚お相手の候補者は?
母・雅子さまが徳仁さまに初めてお会いしたのは、22歳のとき。
愛子さまにもいつ、運命の出会いが訪れても不思議ではありません。
①高校時代から特別な男性
実はすでに特別な男性がいるという話があります。[2]
その男性とは高校時代からのお付き合いで、愛子さま18歳の誕生日の時には、その“彼”から『4℃』のシルバーネックレスをプレゼントされたとか。
親しい友人にはインスタでそのことを報告されており、コメント欄には“お幸せに!”といったお祝いコメントが見受けられました。
既に運命の出会いをされているなら、その男性とお幸せになるのが一番ですね。
しかし、小室圭(こむろ・けい)さんと眞子(まこ)さんの結婚で、一般男性との結婚はハードルが上がってしまいました。
伝統と慣例にのっとり、ふさわしいお家柄の男性も検討の必要がありそうです。
②皇族か華族か旧宮家なのか?
家系的にふさわしいお相手もいらっしゃいます。[3]
一人は、旧皇族であった賀陽宮家に1998年生まれの男子。
もう一人は、東久邇家に2004年生まれの男子です。
特に東久邇宮家の男子は、昭和天皇の血筋にあたります。
年齢的にも愛子さまの3歳下であり、もっとも近しい旧宮家であるということで、お相手候補ナンバー1と言えそうです。
◆まとめ
愛子さまのお名前は、
人を愛する者は人恒に之を愛し、人を敬ふ者は人恒に之を敬ふ。
という「孟子」の一説から取られています。
ご家族の願い通りすくすくと成長され、人を愛し、愛される女性となりました。
これからも家族の応援を胸に、愛子さまの人生は続いていきます。
◇脚注
- 週刊女性PRIME 2019年5月9日 新皇后雅子さまは“強肩のサード”部活秘話
- 週刊女性PRIME 2021年3月3日 愛子さま、“推しジャニ”とネックレスをくれた「特別な存在」をインスタで匂わせ
- 日刊サイゾー 2019年9月12日 愛子さまのご結婚相手に相応しいのは誰? 保守派を納得させる仰天プランも
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