「北の国から」の作者としてあまりにも有名な脚本家・倉本聰(くらもとそう)さん。
今回は、そんな倉本さんを取り巻く『家族』にスポットを当て、ご紹介します。
◆実家は東京・杉並区
倉本聰さんは、代々木駅前にあった大邸宅で生まれ、4歳で杉並区の善福寺に引っ越しました。
名門の麻布中学・高校に通い、西武鉄道グループオーナーの堤義明氏とは、中学・高校時代の同級生です。
また、銀座山野楽器の息子も同級生であり、その縁で、山野楽器店にあった当時まだ高価だったテープレコーダーを自由に使う事が出来ました。
倉本さんは、友人らと一緒にそのテープレコーダーを使い、音声ドラマを制作します。
倉本さんいわく
これが人生で最初に作ったドラマ
とのことです。
◆父親の職業は?
倉本聰さんの父親の名前は山谷太郎さん。
ちなみに、倉本さんの本名は、山谷馨(やまやかおる)さんです。
父・太郎さんは東京帝国大学で応用化学を学び、祖父の日新医学社を引き継いで「日新書院」を営んでいました。
正義感が強く、柔道の有段者であり、ケンカっ早いなど任侠的な人であったという事です。
《家族の写真 出典・週刊女性》
一方で、水原秋桜子(みずはら しゅうおうし)さんの門下生で、山谷春潮の俳号で活動。
「日本野鳥の会」の創設メンバーのひとりでもあり、幼い倉本さんを連れて、よく山歩きに出かけました。
倉本さんが、大自然への憧憬や愛着が強いのは、この経験が影響を与えています。
倉本さんは父・太郎さんに
勉強をしろ
とは言われませんでしたが、5歳のころから宮沢賢治の童話の音読をさせられます。
賢治の童話は詩のような美しい韻律があります。音読を続けたことで、文章のリズム感がすごく身につきました
この経験は、脚本家としての倉本さんに大きな影響を与えています。
お父さんが倉本さんに残してくれた様々な「遺産」に気づいたのは、40歳になってからのことでした。
◆母親の名前は?
倉本聰さんのお母さんの名前は、綾子さん。
実は綾子さんは後妻で、倉本さんの兄と姉は、前妻の子供です。
母・綾子さんは愛情深い人で、敬虔なクリスチャン。
家族仲が良かったため、倉本さんは母が後妻であることに、10歳まで気がつかなかったそうです。
倉本さんは2浪して東京大学文学部に合格していますが、倉本さん自身に東大へのこだわりはなく、母の願いでした。
うちは親父も兄貴も東大だったから。おふくろには腹違いの兄への対抗意識があったんじゃないんですかね
このエピソードには、愛情深い母親の、人間らしい一面も見受けられます。
後に売れっ子脚本家となった倉本さんは、昭和49年に大河ドラマ「勝海舟」の脚本を担当。
大河ドラマが始まって3か月後、母・綾子さんは69歳で亡くなります。
綾子さんが「北の国から」を見ることはありませんでした。
◆兄弟
倉本聰さんは、5人兄弟の三番目で次男。
前述のとおり、お兄さんとお姉さんは腹違いの兄弟ということになります。
下には妹さんと弟さんがいるようです。
◆妻は女優・平木久子さん
倉本聰さんの奥さんの名前は、平木久子(ひらきひさこ)さん。
1934年生まれで、今年(2017年)で83歳なので、倉本さんと同い年となります。
妻・久子さんも東京の出身で、倉本さんが所属していた演劇『仲間』に久子さんが入ってきたことで知り合いました。
2人は27歳の時に結婚。
倉本さんが富良野に移住した後も、久子さんは東京で舞台女優として活動していましたが、後に富良野に移っています。
◆子供はイラストレーター・倉本由美
倉本聰さんには一人娘がいて、名前は由美さん。
由美さんは養女だそうで、元々は知り合いの娘さんだったらしいです。
娘・由美さんはイラストレーターの仕事をしていて、富良野のワイナリー「ふらのワイン」のラベルを手掛けています。
◆まとめ
倉本聰さんは子供のころ、部屋で漫画を読んでいる時に母親が急に入ってくると、勉強しているふりをしていました。
脚本家になってからは、小説を読んでいる時に妻が部屋に入ってくると、原稿を書いているふりをしてしまうのだとか。
人々の胸を打つ倉本さんの人間ドラマは、温かい『家族』に支えられているのでした。
《昭和を描いた作家たち》
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