日本が躍進した南アフリカW杯において、急遽それまで指揮を執っていたイビチャ・オシム監督に代わり、日本代表を指揮したのが岡田武史監督です。
横浜F・マリノスやコンサドーレ札幌での指揮の経験もあり、日本代表初のW杯であるフランスW杯でも指揮をした実績豊富な監督です。
現在はサッカー監督のライセンスを返上し、自身がオーナーを務めるサッカーチームFC今治の経営をしています。
今回はそんな岡田武史監督の家族についてまとめていきます。
【本人プロフィール】
名前:岡田武史(おかだ・たけし)
生年月日:1956年8月25日(61歳)※2018年6月
出身地:大阪府大阪市
身長/体重:175cm/70Kg
現役時代所属チーム:古河電工※現ジェフユナイテッド千葉1980-1990
監督時代指揮チーム:
日本代表(1997-1998)
→コンサドーレ札幌(1999-2001※J2→J1)
→横浜F・マリノス(2003-2006)
→日本代表(2007-2010)
→杭州緑城(中国2012-2013)
◆家族構成
岡田武史監督にはお父さん、お母さんとお姉さんがいらっしゃいます。
岡田監督は長男です。
また現在の岡田監督には奥さんと二人の子供、息子さんと娘さんがいます。
◆妻の名前や馴れ初めは?
マスコミに対してはいつも塩対応(?)な所がある岡田武史監督ですが、あれはメディア向けのポーズではなく、本当に塩対応らしいです(笑)
岡田監督の奥様はお名前を「八重子」さんといい、岡田監督よりも2歳年上です。
お2人の馴れ初めは、岡田監督が早稲田大学2年生の時でした。
高校時代から世代別の日本代表に選ばれており、早稲田大学入学後も勉学と両立しながらサッカーを続けていた岡田監督。
知人の紹介がきっかけで知り合った夫人に、サッカーの相談をしているうちに交際に発展したのだとか(*´ω`*)
大学卒業を控えた昭和55年2月に二人はめでたく入籍し、夫婦になりました。
なぜ大学卒業前に入籍したのかという質問に対して、岡田監督は
“就職したら上司に仲人とか頼まなきゃいけないし、しがらみができるのが嫌だから”
と「岡田節」を披露しています。
学生時代から現在に至るまで、どんな場所にもついて行った妻・八重子さん。
ドイツへのコーチ留学の際にも一緒に行きました。
◆初のW杯出場を支えた妻
代表監督に就任して、負けが続くと自宅に生卵をぶつけられる嫌がらせを受けたこともあるそうです。
岡田武史監督と言えば、
“外れるのはカズ”
の名言(?)でも有名。
それまで日本代表のエースストライカーだった三浦知良選手を外して、本大会に臨みました。

結局日本は力不足で、グループリーグで一勝も挙げられないまま帰国。
マスコミや世間からは多くの批判が集中しました。
そんな時でも自宅に帰ってくれば、妻・八重子さんが笑顔で迎えてくれていたようです。
その後の日本代表の躍進を支えていたのは、このころの奥さんの助力があったからかも知れませんね。
◆娘からの手紙…息子さんは?
南アフリカW杯で16強という躍進を遂げた岡田ジャパン。
W杯開幕前は強化試合を含めて連敗が続いていました。
マスコミからも批判が相次ぎ、精神的にもかなり参っていたそうです。
そんなときに娘さんから届いた手紙が、岡田武史監督を奮い立たせました。
“南アフリカの父へ
お父さん、元気ですか。
ごはん、ちゃんと食べてますか?ちゃんと眠れてますか?
お父さんが岡田監督として難しい顔している姿、毎日テレビで見ています。
たいへんな時が続きますね。
私には想像もつかないようなプレッシャーと闘っているお父さん。
この間の試合の後、ますます厳しい顔をしているのを見て
お父さんらしいと思いました。
お父さんが誰よりも真剣にサッカーを考えていること。
サッカーを愛していること。
そして、覚悟を持って仕事をしていること。
私は知ってます。だから信じてます。
今日はいよいよオランダ戦ですね。
南アフリカのお父さんに 私たち家族ができることは少ないけれど
精一杯、応援しています。
いつもありがとう。
お父さんは、私の誇りです。
娘より“
この手紙を受け取った岡田監督はそれまでの戦術を見直し、長谷部誠選手へのキャプテン変更や、本田圭佑選手のワントップなどを採用。
その結果、見事グループリーグを突破しました。

W杯進出やグループリーグ突破などの転機には、いつも家族がいたということですね。
ちなみに息子さんもいますが、一般人であるため、あまり情報がありません。
娘さんもこの手紙以外ではメディアに全く出ていませんので、現在何をしているかなどは分かっていません。
◆父親の職業は産婦人科医
子供の頃からサッカー選手になることを夢見てきた、岡田武史監督。
中学生の頃の夢はドイツでプロサッカー選手になる事でした。
しかし、当時の日本はJリーグも開幕しておらず、実業団サッカーだけではとても生活していけるような状態ではなかったそうです。
岡田監督のお父さんは産婦人科医をしており、色々な方面に知り合いがいました。
岡田監督の夢を諦めさせるため(!)お父さんの知り合いであった産経新聞運動部の長賀川浩さんが直々に岡田監督と会って面談したそうです。
その時はプロの厳しさを知って「ドイツでプロになる」という夢は諦めますが、岡田監督は高校入学後もサッカーを続けました。
そのうち日本代表にも選ばれるようになり、サッカーを認めざるを得なくなったお父さん。
どんな著名人の説得であっても、自分の信念を貫く岡田監督の我慢勝ちだったということですね。
◆まとめ
ロシアW杯前の今の状況は、岡田監督が代表を率いていた南アフリカ大会と同じような雰囲気になっています。
強化試合では全く勝てず、マスコミが連日批判を繰り返している状況です。
西野監督も、岡田監督のように『家族』の力で乗り切って欲しいですね( ◠‿◠ )
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